2013年6月25日火曜日

中身のあるクリスチャン

「キング・ジーザス・ゴスペル(福音の再発見)」応援会のタカ牧師です。

皆さんクリスチャンになって、教会通ってても、もう一つピンと来ないって感じていませんか。
あの時はあんなに感動して「救いの喜び」に溢れていたのに、いつの間にか惰性で聖書読んだり、お祈りしたり、教会の集会に通ったり・・・などと思っていませんか。

そんな方に「そもそも福音を聞いてキリストを信ずるとは何か」を改めて考え直す機会を提供してくれるのが本書です。

「キング・ジーザス・ゴスペル」第二章は『福音(ゴスペル)文化、それとも救いの文化』と題されています。

マクナイト教授はイエス・キリストに対する個人的信仰(回心体験)を重視する「福音主義教会」の伝統を評価しています。
でも・・・。
それが一過的な救いの体験に留まってしまって、イエスの「真の弟子となる」方向に進まないのならば十分ではない、と考えています。

広くキリスト教会を見渡して見ると、カトリック教会や東方教会(正教)のように秘蹟や典礼を重視する教会では、福音主義教会と比較して個人的信仰(回心体験)をアッピールすることが殆んどありません。
それは幼児洗礼を受け、ある年齢に達し「教理問答書(カテキズム)」を通してカトリック教会の教理を学んで洗礼を受けて教会員となる。その過程が出来あがっているので個人的回心を経ないでも信者になれるからです。

このためイエス・キリストに対する個人的な信仰が明確でなくても、福音主義クリスチャンのように「イエス・キリストを個人的な罪の救い主として受け入れる体験」がなくても、信者としてカトリック教会員になっていることがしばしば多いのです。
そのため「名前ばかりのクリスチャン」と言う呼称が生まれたほどです。

中世からの伝統で教会と社会が同心円のような構造を持っている場合、その人にとって生まれてから社会の一員となることは同時に教会員となることでもあるのです。
自然の流れでそうなっているのです。
自分から自覚的にクリスチャンとなる機会が失われている、とも言えます。

しかし今ヨーロッパの教会ではカトリックでも東方教会でも信者の減少という問題を抱えています。マクナイト教授は今述べた「自動的に教会員になってしまうシステム」が生き生きとした信仰と教会生活を奪ってしまう大きな要因ではないか、と指摘しています。

しかし福音主義教会の場合はどうでしょう。「決心する」ことによって個人的回心、救いの体験を得ても、それで終わってしまったらそれは「救いの文化」の次元で留まってしまい、「福音(ゴスペル)文化」までには至っていない、と指摘します。
大事なのは「弟子となること」。この次元まで行かないと真に「「福音文化」とは言えない、とマクナイト教授は福音主義教会の人々に警鐘を鳴らしています。

クリスチャンとなる、と言うことは「教会員になる」だけでも「救いを得る」だけでもありません。ゴールは「キリストの弟子となる」ことだ、とマクナイト教授は考えます。

あなたはどう思いますか?

ではまた次の機会に本書の紹介を順にして行きますね。

Originally posted at 2012 Mar 19 by タカ牧師

1 件のコメント:

  1. いつも興味深く拝見させていただいている一読者です。カトリック神学を学んだことのある聖公会信徒です。

    この項目に関しては疑問があります。実情を反映していないというか。確かにカトリックや正教会の信徒数は減少していますが、それは神学的問題とか信仰生活の形態の問題ではなく、社会学的要因の方が大きいのでは?減少率というのを考えた場合、他教派と比較してより低いというものではないかと思います。

    クリスチャンとしての成長という意味では、修道院があるし、黙想会の類とか、アフターケアもないわけじゃないし。

    プロテスタントの場合、個人的救いを強調しすぎる。それはある人々にとってはきついものです。途中でプロテスタント教会に来なくなった人で、カトリックや正教会への転籍者というのは実は多いのではないでしょうか?

    まぁ、このブログの意図するところとは違うかもしれませんが、そもそもカトリックの年間最終主日は「王であるキリスト」の主日だったりしますし、そういう信心はありますから・・・。むしろ、こういうの、カトリック主義だって批判されたりしません!?(苦笑

    一読者さんから 管理人による代理投稿

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