2018年11月11日日曜日

久しぶりの投稿です

このウェブサイトではなんと4年半ぶりの投稿です。

実は『福音の再発見』は2刷まで出たのですが、在庫がなくなっています。

個人的に数冊持っていたのですが、今年二人の方から問い合わせがあり、それぞれ2冊ずつお分けしました。

(残り一冊となりましたが)その8月に送った方から読後感想と共に「もっとないか。あったら買いたい。」とのことでした。
どうしたらいいか検討しているところです。

さてその方の読後感を(許可を得て)ここに紹介したいと思います。

関西の方で伝道している方です。

一生懸命伝道して人を集め教会活動をしてきたけれど、みな疲れ果ててしまった。
せっかく集った人たちも多くが去っていってしまった。
というまさに『福音の再発見』の帯のコピーのような感じです。




この夏は『福音の再発見』を分けていただき、ありがとうございました。『驚くべき希望』(注: あめんどう、2018年10月刊)と合わせて、親しい日本人の友人たちと回して読みしながら、そうかあ、そういうことだったのかと『salvation Gospel』から『whole Gospel』の再発見に目が開かれていく思いです。

最近になってやっと(!)、私たちの教会の牧師が、これらの本を読んでみようというお気持ちになられて、……。それで、もしまだ『福音の再発見』の在庫がありましたら、1冊でも2冊でも譲っていただけますでしょうか。

私たちの教会は、宣教師の開拓伝道によって始まり、多くの高校生〜若い社会人200名以上が救われたと思います。…… けれども、クリスチャンとなった人たちを育てることに重きは置かれませんでした。御国が来ることを待ち望むことは教えられませんでした。何十年も「教会」が伝道中心の場であった結果、疲れ果ていつの間にか離れていく人たちを見過ごし、宣教師もだんだん去り、日本人のリーダーが育ってきませんでした。何かがおかしいと気付きながら、でも必至に日曜日をまわし、ミニストリーを続けることでいっぱいいっぱいであったと思います。……

新しい年に向かって、神様が差しだしてくださっている驚くべき希望の福音を、愛する教会の人たちが知ることができますようにと祈っています。
(※個人が特定されないよう一部表現を変えています。)
 

2014年5月25日日曜日

出版から1年が過ぎて

お久し振りです。タカ牧師です。

スコット・マクナイト「福音の再発見」出版からもう一年が経ったわけです。
何か長い1年に感じるのです。

とにかく一つの本が世に出て1歳になったわけだ。

これまで、この「応援・ファンサイト」では「福音の再発見」出版後、様々な反応を拾ってきました。

しかし半年もすると段々「新発見」はなくなりましたね。
それにつれて更新記事も減ってしまいました。

だから余計長く感じるのでしょうか。

さて1周年を記念して、ちょっと感想や紹介を。

発売後の反応⑨、で紹介した、「長田家の神戸便り」の連載が終わりました。
全15回かけて感想をブログにアップしてくださいました。ありがとうございました。

連載の最後に、「全体を振り返って」でまとめてくださいました。
先ずその感想を。

(1)「聖書」解釈のアプローチの問題
 長田さんは『救済論』『キリスト論』『教会論』など、主に「組織神学」的枠組みでマクナイトの本の主張や中身を自分なりに整理されている、と思いました。

 これに対してマクナイト自身のアプローチはどうであったかと言うと、大雑把に言えば「(新約)聖書神学」的整理であったと思います。
 テキストを「福音」のテーマのもとに在庫整理したわけですね。
①パウロ書簡(特にⅠコリント15章)
②福音書
③使徒行伝の説教
これらは「福音=『イエス・キリストは王である』と言う宣言」が、《旧約聖書のストーリー》を完結すると言う文脈で展開されている、と言う検討のもとにまとめられているものです。

 重要なのは《ストーリー・ライン》が(簡略されたり、一部省略されたりしてはいても)一定かどうか、と言うことにあると思います。

 まことに簡単ですが、Ⅰコリント15章の最初の方に「聖書の示すとおりに(3節)」「聖書にしたがって(4節)」はそのことを端的に示しています。

 つまり『イエス・キリストの出来事』と言う歴史的展開が、《(旧約)聖書のストーリーライン》に沿って成就したかどうかが、福音提示の一大関心事であった、と言うことをマクナイトは跡付けたいのだと思います。

 もちろん「福音の再発見」は「聖書神学」的整理から始めていますが、やがて歴史神学的関心に移ります。
 『信仰の規範』が信条に、そして宗教改革の信仰告白に、と時代が経るにつれて、《オリジナルなストーリー・ライン》はどれだけその痕跡をとどめているのか、と言う関心のもとに概観されています。

 そして結論は本のタイトルが示唆するように、いつの間にか「(個人の)救済」が中心に来るようになり、《ストーリー・ライン》は影を潜めてしまった、と言うことです。

(2)歴史的関心の問題
 「福音とはもともと何であったか」と言う問題意識は、「福音の神学的内容が何であったか」という問いの前に来る、より根本的な歴史的関心だと思います。

 新約聖書各文書が歴史的にどのように形成され、今日の27文書「新約聖書正典」に編集されていったのか、についてはやや複雑なのでここでは避けますが、マクナイトがⅠコリント15章をスタートラインにしたのは、(そして新約聖書テキストとしては時代的には最後の方になる福音書を採用しなかったことは)、その辺の事情ではないかと思います。

(3)重要テーマとしての「神の民」「イスラエル」
 「神の民」「イスラエル」は聖書にそのまま出てくる語であり、私たちが想像するよりはるかに一世紀ユダヤ人キリスト者の「自己同一性」を左右したものであったと思われます。

 その意味で私たち21世紀のキリスト者が「神の民」「イスラエル」と言う言葉を聞いて感ずることとは、それらの語の「実体性」と言う点でかなり温度差があるのではないかと思います。


 最後になって失礼ですが、 「福音の再発見」の書評を本のひろば(2013年12月号)に掲載くださった(あめんどう社の)小渕春夫さん、ありがとうございました。

2014年4月30日水曜日

「福音の再発見」読書会の記録のご案内

 立川自由福音教会の高橋先生が自由福音教会連盟牧師会で本書、「福音の再発見」をお取り上げいただき、御講演いただいたようであります。ありがとうございます。

 まず、子供が祖父母に向かって「おじいちゃんおばあちゃんが地獄に落ちてしまうのが悲しい」という素朴な信仰の問題から始め、

1.なぜ今、福音の再発見が必要か 

2.福音を聖書全体のストーリーから理解し直す

3.バビロン捕囚の中で記された祈りを、原発事故で苦しむ日本の祈りへと変える

4.罪の根本とは、神の支配の簒奪者となること

というテーマで、「東日本大震災」や「福島の原発災害」等との関連で、どう再発見された「福音」をこれらの被害者の方々を含め、痛む方々に「解決があります。天国に行けるのですから」と紋切り型に語るのではなく、本来の聖書の主張に立ち戻り、聖書で紹介されているイエスの福音に立ち、神の御計画とのかかわりで、本来的な神の福音を語ることについて論考しておられる。

 もっとも印象に残った最終結論の部分を引用してご紹介したい。

    確かに、イエス・キリストの再臨を私たちは待ち望んでいる。その時、主はたちどころにこの地の問題を解決してくださる。しかし、それは、「私たちがパラダイスの夢を見て昼寝をしている間に、神がすべてを解決してくださる」というような意味ではない。それは、何よりも、私たちの現在の労苦を無駄にせずに、完成に導いてくださるという意味であって、私たちの現在の地道な働きを軽んじるようなものではない。イエスの復活によって始まった新しい時代においては、「あなたがたは、自分たちの労苦が、主にあって無駄ではないことを知っている」(Ⅰコリント15:58)と確信を持って互いに語り合うことができる。私たちは、今、「神の国」の完成へのプロジェクトに、「神のかたち」としての誇りと自信を持って参画させていただくことができる。そして、そこでこそ、神によって生かされていることの意味と目的が明らかにされるのだ。

記事本体は、こちらから。

高橋先生、お取り上げいただき、感謝。

2014年4月8日火曜日

うれしいお知らせ

皆さま、 大変、嬉しいお知らせでございます。

あの、スコット・マクナイト著、中村佐知訳、キリスト新聞社刊『福音の再発見』が、何と

2014年キリスト教本屋大賞ノミネート作品10点決定!


されたそうでございます。並みいる名著を押しのけ(個人的には、新教出版のボウカムのイエス入門とラウシェンブッシュのキリスト教と社会の危機: 教会を覚醒させた社会的福音入っていないのが不満。と度量の大きさを見せておこうwww)、キリスト教本屋大賞にノミネートされてござる。

ホーマー・シンプソンのように
Woo Hoo!と叫んでおこう。動画をご覧になりたい方は、こちらから。




引き続き、ご愛読くだされたく。愛読者のみなさまには、ずずずぃ~~~~~っと、心よりの御礼申し上げまする。

取り急ぎのごあいさつでございまする。

2014年3月21日金曜日

「福音のこと、ちょっと」

タカ牧師です。

今回ご紹介する記事はかなりディープです。

クリスチャン・ブログとしてはかなり古参の一つと言えるのではないかと思いますが、「ミルトスのかげで(旧「はちことぼぼるの日記」)」に掲載された二つの記事がなかなか読み出があります。

福音のこと、ちょっと 

福音のこと、ちょっと(2)

「いいね」ボタンの数を見ても、コメント書き込みを見ても、結構反響があるのが分かります。

いわゆる「地獄の恐ろしさを前面に出して入信を迫る」福音提示の問題ですね。

イエス・キリストを救い主と信じなければ、あなたは「地獄行き」です、と語られる伝道メッセージはまだまだ福音派の支配的なパラダイムではないですかね。

しゃべり方をソフトにしたり、トーンダウンしたりとそれなりに工夫はしていると思いますが・・・。

このような「ヘル・ファイアー」型説教の元祖と言われたりする、18世紀北米第1次大信仰覚醒運動の指導者、ジョナサン・エドワーズの「怒れる神の御手の中にある罪人」について一言。
(彼のリバイバル説教の背景については、このブログ記事を参照してみてください。)

余り混み入ったことは書きませんが、エドワーズのこのようなエモーショナルな面に訴え「まるで地獄に行っているような感を与える」説教の下敷きとなった『認識論』、当時で言うと最先端であった英国人ジョン・ロックの思索を大陸でいち早く取り入れた成果であった可能性があります。

何て言うか単に「知的に知る=命題化された知識を肯定する」だけではなく、より知覚的な体験化される知識・・・とでも言いましょうか。

ですからそのような知見を説教に取り入れると言うのは先端的な試みだったのではないかと思います。
ただそのうちの一つが「地獄」であり、それが第一次大信仰覚醒運動だった、ということになるのでしょうが。

さてそのようなエドワーズの試みとは時代を隔てて、20世紀のビリー・グラハムのリバイバル・クルセードのような大衆伝道における文脈は大分異なってくるのではないかと思います。

ビリー・グラハムの伝道説教がそうであったとは断言できませんが、このような伝道メッセージの方法から、人心操作、心理的操作の要素が次第に巾を利かすようになってきたのではないかと思うのです。

スケアー・タクティックとも言いますが、多分にレトリカルな言語を用いながら人心を話者が目指す方向に誘導するような話術とでも言いましょうか。

話者と聞く者とが「真理の伝達」と言う前提でコミュニケーション基盤が出来ていればまだいいですが、そのような「言葉を介しての相互信用」が担保されない、利害を異にする他社対他者の関係において、たとえば広告と言うような場面で「心理操作」は見えない形で巧妙に使われます。

一定の効果を発揮する技術としてこのような心理操作が「福音の伝達」という大義名分のもとに、目的が手段を正当化する、と言うような意識で知らず知らずのうちに乱用されるようになってきたのだとしたら・・・。

その辺が「地獄」を前面に出す説教に問題として内在していないか、と懸念するのです。

そのようなテクニックは更に巧妙化する可能性があります。


これは街頭での一応対話形式の伝道と言う体を取っています。

しかしよく聞いていくと、キリスト教にネガティブな意識を持つ人々に、フェアーに真理を論証していると見せながら、聞く側の感情を徒に刺激したり、それをばねにして論争を発展させその間にポイントを稼ぐ、と言うかなり洗練されたテクニックになっているように思うのです。

このケースでは相手をした女性が次第に追い込まれ泣いてしまいます。
議論で公平を装いながら、この議論についつい誘い込まれた女性を利用して、聞いている周りの人たちに理論的に筋が通っているのは自分の方であることを間接的にデモンストレートする方法です。

このような方法がどの程度効果があるのかはかなり疑問です。
逆効果の方が大きいのではないかと思います。
実際別の女性は「如何にお前がやっていることはひどい」かを列挙してその場を後にする例もあります。

どちらにしても相手の感情を逆なでしたり、挑発したりしながら、議論に持ち込んでポイントを稼ぐ伝道方法と言うのは、倫理的にかなりどうかと思います。

かなり「地獄」の話題からは逸れてしまいましたが、一つこのような伝道方法を考える時に参考になる聖書のエピソードを挙げておきます。

使徒行伝27章に囚人となってローマに行くパウロのことが書いてありますが、この時乗船した船が嵐で難破しそうになります。

嵐は収まりそうも無く、人々が生きる望みを殆んど失いかけていた時、パウロは間近に迫った死に備えて、「あなたがたは今天国に行くか、地獄に行くか、二つ道のうちどちらかを選ぶ岐路に立たされています」、などと伝道説教したでしょうか。

あのパウロがしなかったとしたら(少なくともルカはそのようなことを記述していません)、パウロは伝道者として余りにも無責任だったのでしょうか・・・。

最後に時代はどのように変わっても、キリスト者が自らの信仰を弁明する時に必要な態度として少なくとも二つあるのではないかと思うのです。

①聞く者の「良心」に訴える
 使徒行伝の使徒たちの説教(ルカによってかなり要約されていますが)を見てみると、(旧約)聖書に照らしてイエスがメシアであることを論証し説得しようとした、と言う事がいたるところで記されています。その上で福音に応答するかどうか「良心」に訴えた、と言えるのではないかと思います。

②慎み深く弁明する
 公的な場で論証する機会に恵まれない場合、キリスト者はその生き様で証ししたのだと思います。そしてその生き様が引き金となって周囲の人に「どうして」と聞かれた時、福音を弁明する機会を得たわけです。(ペテロの手紙一3:15)


2014年3月6日木曜日

ちょっとひねった「福音の再発見」紹介記事

著名なキリスト教ブログ「命と性の日記」で、サータネットの聖書圧縮商品に敵対的な本として紹介されています。(笑)
最近は、「福音の再発見」とかいう本が日本でも出版されたり、「ケープタウン決意表明」が採択されたりと、福音を圧縮するのでなく、本来の深さと広さに回復しようとする流れがあるようですが、私は大変このことを悲しんでおります。そんな信仰理解に立って、その福音に生きようとしたら、大変ですよ。ストレス高いですよ。快適な信仰生活など望めませんよ。
記事(「悪魔の通信販売(2)~聖書圧縮袋」)の最後に
聖なる消費者相談センターよりご注意とお願いです〉 
※この商品の購入はしなくても、聖書を事実上圧縮し、「神・罪・救い」のみを福音理解とした福音の個人化、内心化に由来する様々な被害報告が、当センターに寄せられております。読者の皆様におかれましては、「福音の再発見」や「ケープタン決意表明」をお読みいただき、自らの信仰理解を検討され、聖書が示す本来の福音の豊かさに生きる歩みへと前進されますよう切に願っております。
として推薦されています。

ちょっとひねった推薦記事でした。

2014年3月5日水曜日

発売後の反応⑪

久し振りの「発売後の反応」シリーズでのアップです。

一応記事のアップが2013年8月ですから、まだ発売後3ヶ月のものですね。
先ずちょっと投稿記事からの抜粋です。
自分達こそ聖書的だと自負している21世紀の福音主義者や根本主義者に対する、痛いほどに的を得た内容です。

伝道集会で「決心」した人が次の週に教会に来ない理由は・・・ キャンプで「イエス様を心にお迎えするお祈り」をした子供達のほとんどが教会から消えていく理由は・・・ 私達にとって、そして教会の将来と次世代育成にとって非常に大切な議論です。

やや難しい内容ですが、中村佐知さんのとても読みやすい邦訳です。 
ブログ主は、滝山聖書バプテスト教会牧師、片村 襟舎(エリシャ)さんです。

さてまた少し「反応」を探して見ます。
まだ見つかるかな・・・。