スコット・マクナイト「福音の再発見」出版からもう一年が経ったわけです。
何か長い1年に感じるのです。
とにかく一つの本が世に出て1歳になったわけだ。
これまで、この「応援・ファンサイト」では「福音の再発見」出版後、様々な反応を拾ってきました。
しかし半年もすると段々「新発見」はなくなりましたね。
それにつれて更新記事も減ってしまいました。
だから余計長く感じるのでしょうか。
さて1周年を記念して、ちょっと感想や紹介を。
発売後の反応⑨、で紹介した、「長田家の神戸便り」の連載が終わりました。
全15回かけて感想をブログにアップしてくださいました。ありがとうございました。
連載の最後に、「全体を振り返って」でまとめてくださいました。
先ずその感想を。
(1)「聖書」解釈のアプローチの問題
長田さんは『救済論』『キリスト論』『教会論』など、主に「組織神学」的枠組みでマクナイトの本の主張や中身を自分なりに整理されている、と思いました。
これに対してマクナイト自身のアプローチはどうであったかと言うと、大雑把に言えば「(新約)聖書神学」的整理であったと思います。
テキストを「福音」のテーマのもとに在庫整理したわけですね。
①パウロ書簡(特にⅠコリント15章)これらは「福音=『イエス・キリストは王である』と言う宣言」が、《旧約聖書のストーリー》を完結すると言う文脈で展開されている、と言う検討のもとにまとめられているものです。
②福音書
③使徒行伝の説教
重要なのは《ストーリー・ライン》が(簡略されたり、一部省略されたりしてはいても)一定かどうか、と言うことにあると思います。
まことに簡単ですが、Ⅰコリント15章の最初の方に「聖書の示すとおりに(3節)」「聖書にしたがって(4節)」はそのことを端的に示しています。
つまり『イエス・キリストの出来事』と言う歴史的展開が、《(旧約)聖書のストーリーライン》に沿って成就したかどうかが、福音提示の一大関心事であった、と言うことをマクナイトは跡付けたいのだと思います。
もちろん「福音の再発見」は「聖書神学」的整理から始めていますが、やがて歴史神学的関心に移ります。
『信仰の規範』が信条に、そして宗教改革の信仰告白に、と時代が経るにつれて、《オリジナルなストーリー・ライン》はどれだけその痕跡をとどめているのか、と言う関心のもとに概観されています。
そして結論は本のタイトルが示唆するように、いつの間にか「(個人の)救済」が中心に来るようになり、《ストーリー・ライン》は影を潜めてしまった、と言うことです。
(2)歴史的関心の問題
「福音とはもともと何であったか」と言う問題意識は、「福音の神学的内容が何であったか」という問いの前に来る、より根本的な歴史的関心だと思います。
新約聖書各文書が歴史的にどのように形成され、今日の27文書「新約聖書正典」に編集されていったのか、についてはやや複雑なのでここでは避けますが、マクナイトがⅠコリント15章をスタートラインにしたのは、(そして新約聖書テキストとしては時代的には最後の方になる福音書を採用しなかったことは)、その辺の事情ではないかと思います。
(3)重要テーマとしての「神の民」「イスラエル」
「神の民」「イスラエル」は聖書にそのまま出てくる語であり、私たちが想像するよりはるかに一世紀ユダヤ人キリスト者の「自己同一性」を左右したものであったと思われます。
その意味で私たち21世紀のキリスト者が「神の民」「イスラエル」と言う言葉を聞いて感ずることとは、それらの語の「実体性」と言う点でかなり温度差があるのではないかと思います。
最後になって失礼ですが、 「福音の再発見」の書評を本のひろば(2013年12月号)に掲載くださった(あめんどう社の)小渕春夫さん、ありがとうございました。
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