2013年11月10日日曜日

『福音』とは

お久し振りです。タカ牧師です。

長ーーい間、更新がありませんでした。
失礼しました。

今年5月に発売されてから2ヶ月くらいは「反応」が結構ありました。
その後8月くらいまではちらほら「反応」がありました。

「さすがに」、と言うか、「残念ながら」、と言うか、段々ネット上の反応は少なくなってきたようです。
それで「ネタ探し」も尽きてきたかなー・・・、と思っておりました。

ブログスフィアーでは最早更新のなくなったブログを「ゾンビー」などとおぞましい言葉を使って呼んでおります。

このブログサイトも、まだそこまでは行きませんが、気をつけないと・・・。

それで適当に足跡だけは付けておこうと思いました。

今日の御題は『福音』とは。

まっこのブログサイトは、スコット・マクナイトの「福音の再発見」ファンサイトでもありますから、適当ではないかと思います。

さて「福音とは」や「福音とは何か」でググって見ますと、案外と言うか、何と言うか、辞典系サイトの説明が割合、学術的に、歴史的に、原語的に参考になるものを結構含んでいるように思う。
元来はギリシア語euangelionで語義は〈よい知らせ〉。古典ギリシア文献では,たとえば戦勝の知らせを指して用いられる。ローマ時代には,皇帝を神的存在とみなし(皇帝礼拝),その即位等の知らせを〈よい知らせ〉と呼ぶことが行われた。旧約聖書では,この語に対応するヘブライ語名詞の用例には見るべきものがないが,同じ語根の動詞から出た〈喜びの使者〉の,とくに《イザヤ書》52章7節(前6世紀後半)での用例は,新約聖書の〈福音〉との関連で注目を要する。(「世界大百科事典 第2版の解説」

1 喜びを伝える知らせ。よい便り。「―をもたらす」
2 イエス=キリストによってもたらされた人類の救いと神の国に関する喜ばしい知らせ。また、福音書にしるされているキリストの生涯と教え。(「デジタル大辞泉の解説」・・・以上2件のリンク先

これと比較すると、キリスト教関係者(牧師や、ちょっと知っていそうな信徒の方)の説明は、マクナイトの言う「救い派」丸出しのような内容になりやすい・・・と言う印象を受けます。

マクナイトが案じたように福音を殆んど自明のこととしているために、「神・罪・救い」のメッセージが既に「雛形・下敷き」となっていて、その枠組みで説明してしまおうとする傾向がある。

マクナイトが新約聖書の福音理解のスタートラインとした、第一コリント15章や、(マクナイトは重用しなかったが)ローマ書1章2-4節、『御子の福音』が指示しているように、「十字架の死と復活」と言うイエス・キリストの出来事それ自体が前面に出てくる把握とはやはり隔たりがある。(「補記(1)」参照)

また「福音」と「福音書」がどう言う関係にあるか、と言う問題に対する気付きもまだ余り見当たらないようだ。
(※欧米での一般的理解は、福音はパウロ的「福音」理解、即ち『信仰義認』に還元される傾向があり、福音書は「福音」の本質理解には余り重用されず、「背景となるストーリー」程度に受け止められる傾向がある。「補記(2)」参照)

と言うことで、余り足しにもならないようなことかもしれませんが、間隙を埋めるためのポスト、と言うことでご容赦ください。

ではまた。

補記(1)
福音の「出来事性」の側面の重要性を掴んでいる解説としては、これは参考になるかもしれない。
しかし「十字架」偏重で「復活」が欠落している、とみなされても仕方ないだろう。

補記(2)
福音を日本人にも受容されるように、と言う主張は分かるが、この福音理解の枠組みは「信仰義認」であることに変わりがない、と言えるだろう。

2013年9月9日月曜日

発売後の反応⑩

細々と続いているような印象をお持ちの方も多いことと思います。

タカ牧師、少し夏バテでペースダウンしています。

さて「読者の反応」と言うことでまた一つ。

牧師の書斎
というブログがあります。



何やらとても「ユダヤ的視点から聖書を読み取る」ことに関心の深い牧師さんのようです。
「イエス」と呼ばず、「イェシュア」と表記しています。

ちょっとおっかない感じもしましたが「福音の再発見」が紹介されていますので、記事にしてみようかと。
(※「福音の再発見」の簡単な紹介ではないので、そこのところよくご理解ください。)

以下のような流れで紹介されています。
(4) イェシュアの語った福音
  • 「イエスの福音」ということばを聞いて、このことばに驚かれるクリスチャンもいれば、ほとんど抵抗を感じな い方もおられるのではないかと思います。このことばは、実は、これまでのキリスト教会の福音の理解を再検証する含みで言われていることばなのです。つまり 「十字架の福音」と言うだけでは、「イエスが語ろうとした福音」には届いていないという警鐘的標語なのです。※脚注
  • ※脚注
    画像の説明
    2013.5に、スコット・マクナイト師の「福音の再発見」という本がキリスト新聞社から翻訳出版されまし た。現在用いられている「福音」という言葉は、イエスや使徒たちが意味していた本来の福音をもはや指すものではなくなってしまったと警鐘をならして、イエ スの語った「福音」に焦点を当てています。彼によれば、「福音とはイスラエルの物語を完成させるイエスの救いの物語であり、イエスは明らかに、イスラエル を救う神のご計画の中心に自分を据えていた。」と述べています。別の表現をするならば、「福音とは、イスラエルのメシアであり、すべてのものの主であり、 ダビデの裔(すえ)である救い主イエスの、その救いの物語によって完結するイスラエルの物語である」としています。アーメンです。
と言うことで、「福音の再発見」に限って言えば、仰っておられることは大体そうだと言えるのですが、このページ全体の文脈に広げて見ますと、「イスラエルの回復」とか、「置換神学」、とか幾つか特定の「神学的伝統」の解釈の問題を引きずっている印象があります。

もちろん誰もが一定の神学的伝統(自覚的にか、無自覚的にか)に負いながら「聖書」を解釈しているわけですから、そのこと自体を問題視するだけでは・・・と思います。

ただ別な方から入ってきている「読者の反応」を聞いていますと、やや「我田引水」的に、「福音の再発見」の命題を、それら「特定の神学的伝統による解釈」に入れ込もうとしたり、あるいは「聖書解釈研究に熱心な方」が「福音の再発見」からヒントを得て、「ご自分の聖書解釈法」を補強しようとなさったりする傾向があるようです。

もちろんこれは程度問題であり、少し熱心な方は、誰でもそのような取り組みはしていると思います。
要はそれが他者の批評にどれだけ耐えうるか、やはり「レフェリー」は必要に思います。

願わくはこのブログもほんの幾分でも、そんな役割が果たせれば良いのですが・・・。

まっタカ牧師では力不足ですから、余りそんなこと言わない方がよろしいかもしれませんね。

いのフェスに出店いたします。

さて、いのフェスもいよいよ今週末。
いよいよ盛り上がってまいりました。(一部だけという噂はございますが…)

今回のいのフェス、力が入っとりますなぁ。なにせ、「晴佐久神父様×宮台先生」ですし。

出店者数も過去最高ではないかと。

場所は、早稲田奉仕園 スコットホールです。
このファングループも、『福音の再発見』を応援する勝手連』として出店いたし、国内メンバーの全員も、当日会場にGo!である。A-9のブースで、「福音の再発見」と「わが故郷、天にあらず」の特価販売(市販価格より少しおやすめ、部数は限定各30部程度)およびNTライトセミナーの情報提供をいたします。

 本ブログのメインライターのTaka先生もお出ましくださるご予定。

 Aー9のブースが分からなくても、福音の再発見の画像がかかったブースが目印です。

いのフェスでお会いしましょう。

2013年8月27日火曜日

「福音の再発見」ファン感謝デー・東京編 ご報告

先日、8月25日に持たれたイベントの報告です。

イベントと言っても、関西編と同じく、いやもっと小さなイベントです。

当日は、その前の日曜日に「奨励」をしてくださったYさん、そしてYさんが誘ってくださったKさん、そしてOさんと小嶋の4人でした。

2時前に皆さん集まったので時間前に開始。

最初は自己紹介を兼ねて自分の「キリスト教」との関連みたいな話。
一巡して小嶋の番になったので、その延長で「ミニトーク」をしました。

小嶋が強調したのはマクナイトが着目したⅠコリント15章の「福音」の中でもその「出来事性」(これは関西編の時と同じ)、それが出来事の「神学的解釈」よりある意味優先順位が高い、と言うポイントでした。

少し誤解を招く言い方かもしれません。

というのも「解釈のない事実そのもの」と言うことはないわけですから。
ただⅠコリント15章の提示の仕方を見ると「伝承」の中心は出来事の「神学的解釈」ではなく、「イエス・キリストの出来事」そのものと言えるだろうと思います。

僅かにイエスの死に関しては「わたしたちの罪のために」(15:3)と付されていますが、それは新約聖書に展開されている「イエスの死」の意味の多様な解釈と比較する時、ミニマムなものだと言えると思います。

そんな話をした後で、各自の「福音の再発見」の読後感を語り合いました。

たとえばKさんだと、自分が通ってきた教会で感じることと「聖書に見る」キリスト教の間にある「齟齬のようなもの」を、マクナイトが『福音』と『救い』を区別したことによって、その「齟齬のようなもの」を少し理解できるようになった。

自分が感じている「現実の教会」とのずれがどのように生じているかが少し見えるようになった。
それだけでも買った価値があると思っている。

とか、Oさんのケースだと、中年になるまでなかなか仕事に時間を取られて「信仰」を(神学的に)吟味することがなく、いわゆる「サンデー・クリスチャン」できてしまっていたのが、中年に差し掛かったここ数年幾つかのキリスト教書に触れて、保守的な信仰をただ守るだけでない、「考える」部分があることを発見し始めた。「福音の再発見」はそれらの書物の一つだ。

この他「神の義」に関する神学談義や、「福音」を日曜日以外にも生きる、社会や世界への適用の問題、知的な信仰に偏らないため「礼拝」と言う習慣を毎日続けること(聖公会の利点)、などなど予定時間を越えて語り合うことが出来ました。

と言う訳で、「福音の再発見」発売から約1ヵ月後の、御茶ノ水CLC書店でのインストアー・トークイベントと比較すると大分こじんまりとしたものになりましたが、二つの「ファン感謝デー」イベントを終了することが出来、感謝でした。

後はこの波が少しずつでも波紋のように広がっていければいいな、と思っています。


2013年8月20日火曜日

発売後の反応⑨

本の方の売れ行きは「一落ち着き」しているようです。

しかしブログの方にはちらほら「読者の反応」が続いて出てきているようなので、嬉しい感じです。

今回見つけたのは「長田家の神戸便り」というブログ。
神戸にあります日本イエス・キリスト教団事務局で働きをしています。
と言う方。失礼ながら名前が出ていないので「長田」さんと呼んでおくことにいたします。

ななんと、マクナイト『福音の再発見』について連載しているのですね。
「1971」という序文がついています。この序文タイトルは、著者17歳、信仰を持ったばかりの時期に経験したエピソードが1971年の出来事だったとこ ろからつけられたものです。これは、教会の執事による訪問伝道に一緒についていった体験で、福音に何の関心も持たない男性が、余りに熱心な「伝道」によ り、とりあえず「キリストを受け入れる決心をした」というものです。「伝道とは何か」「福音を伝えるということはどういうことなのか」という著者の問題意 識の始まりとなった出来事です。
これはシリーズ「その①序文」からの引用。

現在、その⑨:第8章後半まで進んでいます。

すごいですね。

注意深く読み進めていますね。

「ナルホド」と「どうかな?」と言うカテゴリーを用意して内容にかなり詳細な検討を加えています。

率直な論考が重ねられていますから、他の読者の方々も参考になさると良いと思います。

タカ牧師ももう少しちゃんと読んだら、気がついたことを書いてみようかと思います。

という訳で簡単にご紹介まで。

2013年8月19日月曜日

「福音の再発見」ファン感謝デー・関西編 ご報告

いやー暑い日でした。

日曜日の午後ですから、中々出にくい設定だったのですが・・・。

2013年8月11日(日)、午後2~4時

場所は神戸・三ノ宮駅近くの、神戸市勤労会館・特別応接室

部屋は広々快適でした。

早めに大阪から来会されたWさんと、ひとしきり色々おしゃべり。
まだ「福音の再発見」は読了なされていない様子。

もう一人参加予定のHさんを待ちながらさらに色々おしゃべり。
相互に関わりがある、Sさんや、T先生や、O先生のことなど。

時間が過ぎたので、まだHさんが到着していませんがスタート。

最初はタカ牧師のミニトーク。
お話の起点は、「福音の再発見」の第4章のゴルフコースのエピソード。
日本での発売直前に行なった、マクナイトとのEメール・インタヴューでも確認されたことだが、
・・・その時こう言う順番で調べて行って欲しい。先ずコリント第一の手紙の15章。それか ら使徒の働きに出てくる説教。それから福音書自体が福音な のかどうかを問うてみて欲しい。そしてテモテへの手紙第二の2章8節を読んで、そこに言われていることが福音かどうか問うて欲しい。
新約聖書が語る福音、使徒たちが伝えた福音、をどのように検証するのか。
もちろん新約聖書に照らしてその作業をするのだが、マクナイトはその時に相応しい順番がある、と言うわけです。


本書でもそのように取り扱っていますが、この時のインタヴューでもそのポイントが再確認されました。

要するにパウロが福音の核心として「伝承された」、イエス・キリストの出来事(ストーリーとも言い換えられる)のクライマックスである
「(十字架による)死」
「葬り」
「復活」
が「聖書に従って」起こった・・・と言うことが最重要なことなのだ。
そのことを私たちが再確認することから「福音の再発見」は始められるべきだ・・・と言うのがマクナイトの最も言わんとしている事である。

・・・そんなことをタカ牧師自らの「気付きの体験」を交えながら話し始めました。
(当日録音したテープを聴き直してみたところ、「聖書に従って」起こった・・・という部分は残念ながら抜けていました。)

Ⅰコリント15章を読み始めようとしたところで、Hさん到着。

ミニトークを要約すると、Ⅰコリント15章での福音の核心部分は歴史的に起こった「出来事性」にある。福音派が「救いのメッセージ」に要約する「私たちの罪を赦すために身代わりになって死なれた・・・」というイエスの死の出来事の「救済論解釈・意味づけ」が福音の中核として伝承されたのではない、と言うこと。

「初めが肝心」と言うことは、この順序「先ず出来事があり、しかる後にその救済的意義が深められて行った」と言う順序の後先が逆になってはならない・・・と言うのがタカ牧師のミニトークのポイントでした。

その後フリートークとなったのですが、何かの拍子に「イエスの復活」の話題が持ち上がり、
「死後遺体はどうなったんですかねー」
「遺体はどうなったか分からないけど、とにかく天に挙げられたわけでしょ」
「教会学校ではイエスは私たちの心に(復活して)生きている、みたいに教えているみたいですねー」
等々、何とも「イエスの復活」についての使徒的福音が、一部の教会の教えでは骨なしになっている様子が浮き彫りになってきたわけでした。

それでひとしきり「イエスの復活」の事実性を、「キリスト教会成立」の根本要件として説明する長い話に相成りました。

以上がイベントの報告です。

期待より少ない参加者でしたが、暑い中お越しくださったWさん、Hさん、ありがとうございました。
会場の用意や、眠気覚ましのアイスクリームを提供してくれたミーちゃんはーチャンさんのご労にも感謝。

今度は東京は巣鴨(つまりはタカ牧師のホームグラウンド)で、8月25日、午後2-4時、開催しまーす。

2013年8月16日金曜日

ある読者からの疑問

去る8月11日(日)に、神戸三宮で持たれた
「福音の再発見」ファン感謝デー

の報告はまた後日することとして、
今回はブログではなくSNSから入手した「読者の反応」と言うことで取上げさせて頂きます。

疑問その①「簒奪」
先ず、長くなりますが、コメントを引用させて頂きます。
「この世界を、神に代わって治めること」(210頁)の「世界」というのは被造物全体、被造物同士の関係というふうに理解しました。
動植物を含む自然環境、自分の身体、他人の身体、それら同士の関係。
「治める」というのは管理するというふうに理解しました。

「この世における神の支配を簒奪し」(211頁)の簒奪は「世界」を自分の所有物のようにあつかうというふうに理解しました。

管理を任され ていた管理人が、任されていた土地や家屋などの物件を台無しにしたり勝手に売り払ったりするというイメージ、自分の身体を傷つけたり自殺したり、他人の身体を傷つけたり殺したり、人間同士の関係を破壊したり、自然環境との共存を拒否してそれをねじ伏せるようなイメージ。筆者自身はどんなイメージで、治めるとか、簒奪とかいうことばを使っていたんでしょうか。

「簒奪」「簒奪者」は英語では、"usurp" "usurper"の訳語で、校正の時も含めて適訳がないか、色々と迷った語の一つです。

最初から「大きな話」になって恐縮ですが、マクナイトは「王なるイエス」を、創世記から始まる「エイコン(神の像)」の任務の引継ぎストーリー(アダム→アブラハム→ダビデ)を完成するお方として提示するのが『福音』だ、と言っているのだと思います。

そうすると、「この世における神の支配を簒奪し」(211頁)の簒奪は、アダムがエイコンとして、神の代理者・代理王として非常に高い位置に置かれていながら、神ご自身の権威を奪い取ると言う、かなり倒錯的な反逆行為を行なった、と言うことであり、単に道徳的に逸脱したとか、命令に違反したとかのレベルの話ではない、と言うことを指摘しようとしているのだと思います。

ですから、「王なるイエス」の福音は、イエスが真の「神のエイコン(神の像)となられることによって、そのとてつもない罪の解決者として提示されるストーリーなのだ、となるわけです。

その神学的ストーリー構成を、ピリピ2:6-11、コロサイ1:15-20、Ⅱコリント3:18-4:6に見ることができる、と指摘しています。

疑問その②「gospelか、それともgospelsという複数形か、の話
先ず、また、コメントを引用します。
112頁に出てくるgospelかgospelsかという複数形の話について。言いたいことはよくわかりますが、 ここまでわざわざ福音は複数ではないと言わなければならないのか、理解に苦しむとまでは言いませんが不思議な気がします。「四福音書」という日本語を見て、福音が複数あるなどとは誰も考えません。ただ福音書が4つあるんだなと思うだけです。「単複両用形」が欠如した言語を使っているからこそ生じるこだわりなんでしょうね。

この問題は、「福音」を私たちが理解する場合陥りやすい誤解に関連しているだけでなく、「福音」はそもそも一つだ、と言う確信に遡る重要な問題だと思います。

と言うわけで、「単複両用形」に関する彼我の言語の違いから来る問題ではないと言えるでしょう。

既にこの本でも論議されている「イエスの福音」と「パウロの福音」との相違が果たしてあるのか、と言う問題が出ています。

さらに現在の読者は「福音書」があたかも「文学ジャンル」として存在していたような印象を受け取りやすい、と言う問題もあります。(四福音書にはもともと「福音書」などと言う定義は含まれていません。マルコの冒頭にある「福音」もタイトルを表すかどうかは議論されています。)

マクナイトはここでは議論に含めていませんが、現在の新約聖書学には「トマスの福音書」や他の「福音書」も、キリスト教の多様な表現として認められるべきだ、と言う議論があります。

四福音書が複数の福音書ではなく、異なる、匿名の著者による、「一つの福音」として認識されることはかなり重要な神学的認識・判断を含むものだ、と言うことだけ指摘しておいた方がいいでしょう。

Ⅰコリント15章の「福音」は、使徒たちによって「伝承された福音である」という時、それが真正性が担保されたものであることを示唆するものであり、使徒たち以外から伝えられた「異なる福音」に対する規準ともなるわけです。

その意味で単数形で言及される「福音」は文書化される前も後も重要なポイントだと言うことをマクナイトは指摘しようとしているのだろうと思います。
  

2013年8月5日月曜日

マクナイトのサイン付き「福音の再発見」

つい先日までスコット・マクナイト教授はカナダはバンクーバーにあるリージェント・カレッジの夏季学校の講師をしていたようだ。

バンクーバー在住のI・Aさんが、スコット・マクナイト教授に「福音の再発見」にサインしてもらったのをツィッターで紹介している。


なかなか達筆なのかもしれないが、やはりハンドライティングというのは読みにくい。

サインの下に何やら聖書箇所の引用があるようだが、12:29-31は分かるが、どの聖書かが分からない。

うまいことにミーちゃんはーちゃんが確実に回答してくれた。

ジーザス・クリードのスコット・マクナイトでしょ。
そうしたらマルコじゃないですか・・・。

イエスはお答えになった。
「第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』
 第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つにまさる掟はほかにない。」 

そりゃそうだわ。
言われて見れば確かにMkに見えるは・・・。

2013年8月3日土曜日

発売後の反応⑧

タカ牧師です。

「大和郷にある教会」ブログの方で、某読書会レポートを書いた。

その晩の読書会の冒頭、6月24日に東京ミッション研究所共催で持たれた学びでの講師、トーマス・ヨーダー・ニューフェルドのことを耳にした。

そんな絡みで、今回の「福音の再発見」読者の反応はこれ。

あるメノナイトの救い理解という記事。

2013年7月3日 福音聖書神学校・公開講座での、トーマス・ヨーダー・ニューフェルドの講演がまとめられているが、そこに「福音の再発見」との絡みで次のように言われている。
そこでスコット・マクナイト「救いの再発見」と並行する「福音」に関する新約聖書学的アプローチを見ておられるようだ。
今回は、メノナイトからの「救い」理解について語ってくださいました。
スコット・マクナイトの「福音の再発見」という本が出て話題になっていますが、講演の内容も、同じように、福音書からの福音の提示・パウロ書簡の義、信仰という単語理解の修正という流れに従うものです。
メノナイトらしく、(そして、私に言わせれば聖書に忠実に)和解を中心に組み込んだ、包括的な救い理解を語ってくださいました。
とのことです。

マクナイトはバプテストの出身ながら、今はかなりアナバプテスト的神学になっているようだ。
特に「福音の再発見」でも言われているように「イエスに従う(弟子化)」ことが福音と直結した課題であることを強調している。

どちらにしても、マクナイトも、ニューフェルドも、「救い派」のような矮小化された福音理解から、より包括的な福音理解へと、新約聖書の聖書神学的解説を行なったのであろう。

残念ながら、東京聖書学院(日本ホーリネス教団)は東村山にあり、度々東京ミッション研究所(不思議なことに依然として独自のHPを持っていない)から講演会の案内を頂くのだが、なかなか足が向かないのである。

今回はどうもミスしたようだ。

2013年7月26日金曜日

発売後の反応⑦

タカ牧師です。

またまた一週間位開いてしまいました。

さすがに「福音の再発見」も重刷になったとは言え、その後の反応は最初の頃よりは目立たなくなってきました。

しかし全然ないわけではなく、(販元のキリスト新聞担当者から聞いたところによりますと)その後も全国各書店で順調に売れているようですので、まだ待っていれば「読者の反応」は出てくることと期待します。

今回紹介するのは「福音の再発見」に付けられたサブタイトル『なぜ“救われた”人たちが教会を去ってしまうのか』に関心を持たれた方の反応です。

①通称OZさんのWho Am Iブログから
人の魂の救いにとにかくこだわり、彼は既に救われているか、まだ救われていないかに第一の関心を寄せながら伝道、弟子訓練しているような俺みたいなへんてこりんな奴にはこの本は非常に非常にいい意味で一石を投じます。牧師先生方に読んでもらって感想を聞きたい本第一候補。お勧めです!!
と言うことですので、「牧師先生方」どうぞ読んでおられない方がおりましたら是非どうぞ。

また信徒の方でお読みになった方で、ご自分の教会の牧師さんがこの本をお読みになっていないようでしたら、それとなく「『福音の再発見』読まれているみたいですね」、と誘い水を掛けていただければ幸いです。

ちなみにタカ牧師の教会グループでも先日牧師会がありましたが、(タカ牧師を除いて)集まった6人のうち4人が既に購入して読んだか、読書中か、購入しました。

②細野英朋さんの『福音の再発見』出版記念インストアートークイベント参加記
「なぜ"救われた"人たちが教会を去ってしまうのか」を私なりにとてもおおざっぱに書くと、このようになります。

キリスト教の「福音派」はいつしか、信徒を増やすことだけにフォーカスするようになりました。興味を惹くことで信徒を増やす動きは、興味が尽きた信徒をつなぎとめられないという結果を生み出しました。「な ぜ"救われた"人たちが教会を去ってしまうのか」、それは興味を惹く手法を追いかけ、「救い」を粉飾したことにあるのかもしれません。ちなみに本書では、 このことを「『救い』が『福音』を乗っ取った」と表現しており、宗教改革以降、だんだんと「救い」が「福音」を乗っ取ったのだと主張しています。
細野さんはこれに続けて「伝道と社会的責任」と言う大事なテーマについても考察していますので是非お読みください。

今日たまたま、Facebook上で、ある方が「福音の再発見」での聖書引用が「新改訳聖書第3版」であるのに、そのことが明記されていない、とコメントしているのに接しました。

これは最終校正にちょっと加わっていたタカ牧師としても残念なミスです。
読者の方々には大分後からになって申し訳ありませんが、この場を借りてお詫び申し上げます。

幸い第2刷の方では既に改められています。(このページの一番上の行にそのことが明記されております。)


と言うわけで、なお「福音の再発見」宜しかったらまだ知らない方にお勧めください。

ではまた「読者の反応」探してみます。

2013年7月19日金曜日

「福音の再発見」ファン感謝デー・東京編

タカ牧師です。

こまめに「読者の反応」を拾っておりましたら、拾ったブログ主が逆に本サイトを紹介してくださいました。

何しろキリスト教ブログとしては最大とも思える命と性の日記ブログです。

アクセス急上昇に乗じて広告させて頂きます。
(と言うのもイマイチPRの手応えが無く、イベントが成立するかどうか心配なのであります。)

※「福音の発見ファン感謝デー・神戸三宮編」の案内は・・・こちら
では「福音の発見」ファン感謝デー・東京編のご紹介をば・・・

と き: 2013年8月25日)午後2-4時(時間中出入り自由)
ところ: 木工房活水・ティールーム(7-8名)
     ※巣鴨聖泉キリスト教会隣接

アクセス(地図・経路)
こちらをクリック。
なにするの:タカ牧師のミニトーク
    「『福音の発見』で大事なのは『どこから始めるか』です。お茶飲み話その後はお茶を飲みながら自由にチャットチャット
     (福音の発見から話題が外れても気にしない気にしない。自由にトーク。)
参加費:一人500円(お茶とお菓子の用意があります) 
お問合せ:sugamo_seisen*yahoo.co.jp

    (*マークを半角の@に変換してください)
電 話:03-3946-8035(当日・直前は、携帯080-5180-8035)

     ※どちらもコジマが出ます。

 
※なお準備の関係もございますので、前日までに「出席します」と一声お名前とともにメールでお知らせいただけると誠に助かります。
(メールの場合、お名前の読み方をカナ表記でお願いします)
ご無理な方はお電話にて承ります。

福音の再発見ファン感謝デー・関西編(神戸三宮)

ミーちゃんはーちゃんでございます。

暑い日が続いておりますが、皆様 つつがなしや?

 さて、8月の暑いさなか(8月11日目前、彼岸の入り)でありますが、神戸の三宮で、「福音の発見」、ファン感謝デーを開催できることになりました。

 ファン感謝デーなのに料金を取るのは・・・(この辺、関西は渋いですから)ということもありますので、ファン感謝デー、ご参加無料大解放デー(と言ってもスペースの関係からいって、先着7名様限りになりそうですが)を開催いたしたく思います。
 
 日曜日の午後の出にくい時間ではありますが、開催いたしますので、エアコンの効いたお部屋で、冷たいものなどを食しながら(と言っても豪華なケーキ類などは出せませんが)、あーでもない、こーでもないと2時間ほどフリートークというかディスカッションをしていろいろご教示いただければ、と存じます。

 会場の関係で受け入れ人数に上限がございますので、事前にお申し込みの方を優先的にお受けしたいと思います。

開催会場および時間
1. 神戸三宮の集い
 とき:   2013年8月11日)午後2-4時(時間中出入り自由)
 ところ: 神戸市勤労会館 応接会議室 (10名)         
         スコット・マクナイト研究会 名義

       神戸市勤労会館はこちら
        (http://www.kobe-kinrou.jp/shisetsu/kinroukaikan/index.html
       ミント神戸の東、サンパルの南、中央区役所の隣(三ノ宮駅から徒歩5分)


 なにするの:

   ミニトーク::巣鴨聖泉キリスト教会のタカ牧師
      タイトル「福音の再発見」で大事なのは「どこから始めるか」です。

      ホスト  :ミーちゃんはーちゃん

   お茶飲み話
   その後はお茶を飲みながら自由にフリートーク
      (福音の発見関連のお茶飲み話)
    お茶と紙コップ類、簡単な冷菓をこちらで用意します。

 ※参加費   一応無料 + 自由献金(箱入れ形式)
 ※お問合せ kawamukaihajime*gmail.com 
           (*マークを半角の@に変えてください)
          TEL 090-1246-7027 (かわむかい)

ご参加希望の方はお早めに、メールでご連絡いただけると嬉しいかと。

ご無理な方はお電話で。

えっ、福音の再発見の原書がキンドルでただ!

スコット・マクナイト「福音の再発見」は原書では
The King Jesus Gospel

ですが、どう言うわけかAmazon.co.jpサイトで、この原書の「キンドル版」がただで手に入るようです。

リンクはこちら


情報を流してくださった小島牧師に感謝!

2013年7月15日月曜日

発売後の反応⑥

さてしばらく開いてしまいました、タカ牧師です。

ちょっとツイッターのTLから拾ってみました。

松田牧師はタカ牧師が、いきなり「高松でおいしいうどん屋さん紹介して」みたいなツイートをいきなり投げたのに、ご丁寧に地元のお店を紹介してくれた親切な方です。
本も良く買っておられるようです。

願わくは「福音の再発見」が松田牧師のお眼鏡に適うものとなると良いのですが。
松田牧師は日本キリスト改革派高松教会ですから、バプテスト出身、今メノナイト的な神学のスコット・マクナイトの立場にどれ位好感を寄せていただけるか、との心配も無きにしも非ず。


読者の反応と言う話とは少し変わりますが、Amazon.co.jp、ではもう中古品として出ていますね。
しかもお値段が、3,972円よりとあります。
さらに「コレクター商品」のカテゴリーでは、4,200円よりとあります。
どうなっているんでしょうね・・・。

そう言えば、教文館の(キリスト教書籍)「月間売り上げベスト20」では、5月に続いて、6月も「第1位」となっています。
読者の皆様の熱い御支持の賜物、と深く感謝するしだいであります。

さて既に一度ご紹介くださった、「命と性の日記」の水谷先生が再度、福音の再発見ーー黒船来航すれども開港せず、でその意義を評価してくださっています。
この書物を読んで、「福音派はおかしい」とか「福音派はダメ」とか(聖霊派も含めた広義の)福音派に属する者が、反応するのは、違うだろうということです。G先生のご指摘のように、この書物は福音理解について、私たちを真摯に聖書と歴史と文化に向き合わせると言う意味で、やはり黒船だと思うのです。ショッキングな方法で、自分の福音理解に安住する者に、目を覚まさせる書物なのは間違いありません。
「(日本での)発見者」としてそこをご理解いただければ、一つ役割を果たしたかな、と言う感じです。

またG先生も、スコット・マクナイト「福音の再発見」再考、と言う記事で再度本書を取り上げてくださり、評価とともにその問題点、殊に日本で(米国でも同様とは思いますが)、いかに「再発見」された福音をまさにゴスペルとして語るのか、と言うことを指摘しておられます。
私には本書におけるマクナイトの聖書に基づく適用部分を読んでも、今のところまだそれほど明らかではありません。つまり、私としては——牧師としての説教の務めは離れましたが——天地創造から新天新地に至る救いの物語の中にキリストにある全被造物の解放を見ながら、すべてを包む神様の恵みの風呂敷の結び目にリバイバルの伝統におけるキリストの血による個人の罪からの救いをおいて語る以外に、 まだ自分の福音伝道のメッセージを持ち得ません。
すなわち、私のうちにある伝道メッセージは——そして私の生き方は——今も高校生のときにアメリカ人宣教師から最初に聞いた古い福音派の「神ー罪ー救い」というアウトラインにあり、その「救い」の部分にキリストの甦りによる肉体の復活の希望と共同体における新しい人類の完成を含めて、この世におけるクリスチャンの生き方にも関わって「救い」をブロードに解釈して語る、今もそれが基本線です。要するに、私にとって福音は今も基本的には宗教改革の伝統に立つ「古い古い十字架教」(内村鑑三)なのです。
とのご指摘ですが、恐らくタカ牧師の見方では、マクナイトは再発見された福音の「文化」を問題にしていて、「簡略化された救済論」を「一回の伝道説教で回心を迫る」ようなイメージでは捉えていないように思うのです。

その点、タカ牧師が「大和郷にある教会」ブログで連載してきた「福音派のパラダイム・シフト」とマクナイトのアプローチは通底しているように思います。

さて今回の「読者の反応」は期せずして「牧師たちの反応」になってしまいました。
その点はあまり変えられないのですが、最後に晴佐久神父(ボット)のツイートで締めくくりましょう。




ではまた何かありましたらご紹介いたします。

ところで、8月11日(日)午後2-4時(神戸・三宮)、そして8月25日(日)午後2-4時(東京・巣鴨)の福音の再発見読者感謝デートークバック・セッション、皆さん是非いらしてくださいねー。
心よりお待ちしています。

2013年7月13日土曜日

福音の再発見のタイトルにしたわけ(2)

 前回に引き続き、このタイトルにしたわけをご説明したいと思います。


なぜ、福音の再発見というタイトルにしたか?
幻のタイトル案たち

 この本の企画段階では、お世話になった皆様方(Taka先生、訳者の中村様、キリスト新聞社の担当の方お二人、そしてミーちゃんはーちゃん)から、さまざまなタイトル案が出ました。一部をお示しすると、こんな感じです。

  • 福音ってなんだ?-教会文化の再構築に向けて
  • 「福音ってなんだ?-土台から見直す教会文化」
  • 「福音」を問い直す
  • それって「福音」?
  • ホントの『福音』ってなんだっけ?―ペテロやパウロが語りたかった『福音』―
  • 『福音』ってなんだっけ?―ペテロやパウロが語りたかった『福音』―
  • その「福音」理解、間違っていませんか?
  • 目からウロコの「福音」指南
  • 福音とは何か ーイエスと使徒たちの福音ー
  • イエスが教えた福音
  • イエスが伝えた福音
  • 福音ってなんだ?-土台から見直す教会文化
  • 福音ってなんだ?-教会文化の基礎工事
  • 『福音』の歩き方 ―ペテロやパウロの語った『福音』―
でこの中には、肝心の「福音の発見」という語が出てこない。(パクリ系のお茶らけ案は、そう、ミーちゃんはーちゃんです)

 そうなんです。それだけ、この本のタイトルには関係者一同悩みました。訳してくださった中村様、そしてミーちゃんはーちゃんに与えたインパクトを失わないようにするタイトルでありながら、本当にイエスが死を賭して語り、パウロやペテロが必死になって伝えようとした『福音』とは何か、福音の民として生きること、すなわち『福音』という生きる姿を示すようなタイトル、そして、人を小馬鹿にしたようでない(ウエメセでない)タイトルとは何か、と関係者一同で考えました。邦訳した時の読者は誰になるだろうか、ということを想定しながら。そして、座礁状態に何度もなりながら。

 そして、もう一度、ゾンダーバン社のThe King Jesus Gospel のプロモヴィデオ(これ↓)



を見たのです。(動画の中でしゃべってるオジサマが、著者のマクナイトさん)そこに、我々がRecoveryすべきものという表現がありました。Recoveryは、再生、回収、取戻し、採取、復旧、覚醒、修復、復元、戻ってくること、といった感じの語です。しかし、この動画の日本語字幕の原案をミーちゃんはーちゃんが走りタイプした時に、何の気なしに再発見と書いちゃったんですね。それをTaka牧師が見つけてくださった。拾ってくださった。

 多分、この原案を走りタイプしているときに、キリスト者は福音をどこかで絶対にちらっとでも見ているはずなのに、それに何らかの形でいろいろな事情で見失われてかけられているから、それを見つめなおし、取り戻したら、というくらいの感じで、再発見としたと思うのです。それがあっさりと採用されて、「再発見」が使われることが決まり、もともとのマクナイトが、「The King Jesus Gospel」と言っていることと、『福音』とは何か、ということを再検討することを迫る本でもあったので、「福音の再発見」となったのが、今年の2月末ごろ。もちろん、このタイトルが決まってから、以前に同名の本があったことにそれも指摘されて気づく愚かさ。ありきたりのタイトルの本というそしりは免れませんね。

 段ボールを破ったようなちょっと乱暴な表紙デザインも、本来持っていた福音が段ボール箱の中にしまいこまれているなら、箱の外側を破って取り出したら、っていう風にデザイナーの方が理解してくれたと思うんです。この辺、直接聞いてないんで、何とも言えないですが。

 上記映像の中盤辺りに引っ越しのため、箱詰めしている大学生風の若者がでてきますが、あの段ボール箱のなかにしまいこんだのが「福音」だとデザイナーの方はご理解いただいたのかもしれません。日本では、会社勤めや仕事を始めて会社や仕事場という現場に出場するうちに段ボールの箱に思い出とか、懐かしのおもちゃや本と一緒に「福音」をつめちゃうのかもしれませんが。

誰のための本か?
 『福音』に今すでに生きている人たちには、本来必要ない本のはずなんです。ミーちゃんはーちゃん個人としては、悩んでいる信徒さんに読んでほしい本なんです。特に経験がなく悩んでいる若いキリスト者の方に。

 お一人様クリスチャン、教会に生きながらも、悩み苦しんでいることを言えずに教会の片隅で息をひそめ隠棲するかのごとく生きているクリスチャン、自分はキリスト者としてふさわしくないと思っているクリスチャンたち、ローンレンジャーのように教会を離れ、一人で生きるしかないと思っている、いや思い込んでいるクリスチャンたちに読んでほしい本なんです。

 本来の生き生きとして、みずみずしい『福音』(福音の民として神とともに生きる生活)を味わってほしい、という思いでの「再発見」でもあるのです。

 従いまして、もう、『福音』を味わっている、『福音』を生きている方には、本来必要ない本なのだと思うのです。牧師先生は、『福音』に生きておられるはずだ、とミーちゃんはーちゃんは確信していたので、「この本を牧師が読むべきだ」ってG先生がお書きになられた時には、「じぇじぇじぇ」と正直驚きました。

 今でも、「イエスは好きだが教会は嫌い」って言われる自称元キリスト者、地図なく荒野や砂漠を歩いているかのようなキリスト者、苦しんでいるキリスト者、教会で砂をかんでいるような経験をしているキリスト者・・・・に、「戻るべきところは、イエスと聖書全体かもね?」ってことをきちんと示している本として、いいなぁ、と思ったのです。それをみんなでいろんな形で味わってもらったら、というのが今のミーちゃんはーちゃんにとっての『福音』です。

どうしろって言ってない本ですが
 ただ、この本には具体的方法論は書かれてない。どうしろとは言ってない本です。こうすればうまく行くってことは書いてない本です。水谷先生の最近の記事でいう、成功哲学や成功者としての教会になるための本ではありません。また、これが福音だ、ってこともあんまり言ってない。

 それはお一人お一人が考えること、ということで、マクナイトはわざと書いてないかもしれないのでは、と愚考いたしております。神とともに生きるという『福音』は、神とその人、その周辺の人々とで作り上げていくものであるがゆえに、安直にある方法(メソッド あるいは、水谷潔先生の記事でご指摘しておられるキャリアポルノ本、成功哲学というのか、成功の方法論のようなポルノグラフィー、あるいは偶像)にしないためにも、一人一人が探してね、という感じでその余白として残しているのかなぁ、と善意に解釈しております。マクナイト本人に聞いたわけでないので、確かではありませんが。

いろんな福音
 神の民として生きる人が100万人いれば、100万通りの『福音(神の民としての生き方とその結果)』があるはずだと思うのです。それを限られた方法で示してしまうことには、しょせん無理があるのだと思いますし、いちいち記載したのでは、紙幅は足らないと愚考します。

 この本の226ページの第2パラグラフにはこのことについて、以下のように書かれています。

「福音とは、イエスの救いの物語の中において完成されるイスラエルの物語であり、その物語は、この世において神の民の中で働いておられる神の業についての物語である」。福音の文化を生み出すために、この福音を自分のものとして受け止めるとは、聖書の物語を神の民についての物語として受け止めることなのである。教会を、その醜い部分も含めてすべて、神の民として受け入れるのである。福音の文化は教会の文化である。そしてそれは、人々が共に造り変えられていく教会の文化である。先に述べたような問題に、共に取り組むことで福音の文化へと変えられていく、教会の文化である。
 つまり、黙然と神の民として生きることも『福音』であり、『福音』を宣言することであり、『福音』を紡ぎだしていくことだと言うご主張だ、思うのです。その物語を紡ぎだし、宣言する側の人間あるいはキリスト者としての誤りや醜さを含めて。

息をしているだけでも福音かも
 それだけ、『福音』って手短に語れるものでなく、味わうものかも、実現しているもの、ということなのかもしれないと愚考します。誤解を恐れず言えば、「キリスト者として、神と共に息をしていること」、「キリスト者として病床でも息をしていること」、「さまざまな事情からとはいえ、教会にもいけないけれども、神を見つめようとするキリスト者としてこの地上で息をしていること」すら『福音』だとマクナイトが言っているように愚考・誤解・誤読してしまったのです。

 イエスが生きている、イエスが生きた、それを声を出して公言するか、説教するか、讃美歌を人々ともに歌うか、人にさまざまな方法で仕えるか、献身するか、痛む人、困っている人ともに生きるか、それぞれの方法は別として、それぞれの方法で、「イエスが生きていること、神が自分と共に生きていることを日々確認(再発見)できれば、それはそれでいいんじゃない?自分自身の『福音』をご自身で見つけてごらん?」という部分が再発見の意味だと愚考いたします。

 水谷先生は、先生の『福音』をすでにお持ちで、日々再発見しておられるのでは、と拝察いたしております。だからこそ、再発見がお分かりになりにくかったんだと思います。

 ただ、何人かのキリスト者とお話しするうちに、『福音』にいろんなものがかかっていて、迷っているような事例も見聞きいたしましたので、ミーちゃんはーちゃんは、そういう方に「あなたたちは持っているはずだし、どっかで見失ったのだったら、あるいは、段ボール箱に詰めちゃってどこ行ったかわかんなくなったら、それを探して、そしてそれを大事に神と共に生きてくださいね」、「一緒に毎日再発見しませうず」って言いたいだけなんですよ。


 できるだけ、一般信徒の方に分かることばで、ミーちゃんはーちゃんがこの本読みながら思った『再発見』『福音』について、お話しいたしましたつもりでございます。水谷先生、そして皆様のご期待に添えていると嬉しいのですが。

                ミーちゃんはーちゃんより

2013年7月12日金曜日

福音の再発見のタイトルにしたわけ(1)

ミーちゃんはーちゃんです。長くなるので、2回に分けようかと思います。ミーちゃんはーちゃんは一介の平信徒にすぎませんので、まだ、一般の方々のお気持ちに添える形でご説明しやすいかと思い、書いてみることにします。長い、くどい、というは承知しておりますが。

こころから御礼申し上げます
 水谷先生、「福音の発見」をブログ記事として、何度もお取り上げいただき、心から御礼申し上げます。

「福音派はおかしい」とか「福音派はダメ」とか(聖霊派も含めた広義の)福音派に属する者が、反応するのは、違うだろう
本邦訳書の出版企画側(CRISP)の意図を正確にご理解いただき、感謝申し上げます。

 ミーちゃんはーちゃんは福音派と呼ばれるところの片隅(ミーちゃんはーちゃんは福音派の外だ、と言われても甘んじて受けとめたく存じます。といいますのは、そもそも、キリスト教界の枠組みをほぼ無視する集団におりますので仕方ないとは存じております)におりますので、福音派の皆様がヲワコンとか、福音派の皆様がおかしい、その聖書理解に問題がある、あるいは、本書でふれられているパイパー先生のお考えがどうのこうのとか申し上げるつもりで本書の出版を企画したわけではございません。

本出版の企画意図
 本書の出版企画したCRISP(というよりはミーちゃんはーちゃんが一人でしておりますものですから、実態としてはミーちゃんはーちゃん)としての企画意図は、できるだけ多くの皆様が聖書の主張に立ち戻ってお考えいただけたら、ということでございます。

 どのようなキリスト教会様にあっても、どのキリスト者様でも、歴史的な経過の中で、あるいは人生の中で、様々なものが知らず知らずに付随してしまいます。そして、それが本来のものを本来のものとして見えなくなすることがございます。従いまして、我々が立ち戻るべきところ、つまり歴史の過程の中でさまざまなものに覆われてしまっているかもしれないものをちょっぴりだけ取り除き、再発見(Recover)したほうがよいところがあるとおもったからです。

 ところで、商船でも軍船でも、船は、長らく航海しますと、船底に牡蠣がらだの藤壺だのが付着いたします。すると、船体の運動能力(速力や旋回力など)が本来の設計基準(諸元)から次第に落ちてまいります。そこで、定期的にドック入りし、船底についた牡蠣がらだの藤壺などをこそげ落とし、船体を再塗装いたすため、造船所のドックでメンテナンスいたします。それと同じように、キリスト者が生き生きとした信仰を保つために、ときにドックインし、自分自身を見直す作業をしておく必要があるのではないか、と思うのです。何気なく生きていると、どうしても、この種の信仰に関するメガネというか、それを覆う膜のようなものが付随してしまう、と思うんですね。ミーちゃんはーちゃんの体験的黒歴史からいっても、そうだと思います。

 その意味で、この本が主張していることは、2000年この方、世界各地の様々なキリスト者集団で起きてきた信仰復興運動や宗教改革運動の一つにすぎない、と言ってしまえば、それまで。新規性は全く何もありません。これは左様に存じます。

 しかし、ミーちゃんはーちゃんも数十年キリスト教界の隅っこで生きてきて、いろんな方々と出会ううちに、あれ、と思うことがございました。特に若い方々とお話ししていると。

 時々お会いする方々が日常の教会生活の中でお聞きになり、お触れになるさまざまなこと(それは説教であったり、祈りであったり、指導・訓戒であったり、他愛のない日常会話のこともありますが)の一部によって本来の『福音』そのもの、あるいは『福音』の中にあるキリスト者としての生き方が少し見えにくくなっているかもしれない、と思われる事例に何例も出会ったからです。

 ミーちゃんはーちゃんが思います『福音』とは、『神とともに生きる、神の民とともに生きる中で、神を日々知り、味わっていく(J.I.Packerの「神について」原題はKnowing Godでご主張になられているように味わうこと)、その生活』がある面、『福音』ではなかろうかと愚考しております。福音とは、概念でもなく、ことばでもなく、聖書の理解の体系でもなく。

 ある方はこれを「宣教」と呼び、ある方はこれを「伝道」とよび、ある方は、これを「あかし」と言うラベルで呼ばれるかもしれませんが。

失意の中でも、ダメ信者であっても
神とともに生かされているのが『福音』
 見栄を張って、自分の力で頑張って、頑張って、倫理的、あるいは良心的に、あるいはお行儀よく、あるいは外見的にある基準に沿って、清く正しく美しく、そのために背伸びして生きようとして生きるだけがキリスト者の生活でもないように思うのです。

 むしろ、ときに神から離れることもありつつ、普通に生き生きと神とともに楽しく生きること、たとえ、病気や事故といった不幸な環境の中でも、あるいは絶望的な状況の中、失意の中でも、そしてときにヨブのように神を云々したりするような、いかにダメな自分であっても、いやむしろダメな自分だからこそ、神とともに生きているということが不自然ではなく、神のものとして神とともに生きることを自然なものとしていきてほしいと思うのです。それこそが『福音』であり、『福音』に生きる、いや、『福音』に生かされている、ということだと思ったからでございます。

 つまり、イエスの語ったこと、聖書が語ること、旧約聖書が語り、そして黙示録に至るまでの聖書全体が語っている、神とともに生きる生活、そして神の民と神の民の群れを形成しつつダイナミックに、神とともに生き生きとして喜んで生きることが『福音』、すなわち「神とともに人が生きること」なのではないか、ということを思うからです。そして、そのことは実に楽しいし、その意味で困難の中にあっても、絶望的な中にあっても、毎日がみずみずしい『福音』であると思うからなのです。

地上にあるリアルな空間としての
教会卒業者やお一人様クリスチャンのために
 そして、さまざまな理由から教会卒業者やお一人様クリスチャンと呼ばれる状態になっていたとしても、もし、そのような皆様方が、たとえ、地上にリアルな空間的存在や活動としての教会につながることはできなくても、リアルな教会(建物やプログラム、教会籍や献金などを含めた諸制度、そこに集う牧会者を含めたキリスト者、また、そこで語られることば、あるいは理解としての聖書理解や『福音』と称されるもの、その他のダイナミズムを含めたもろもろが渾然一体となして生み出しているバーチャルというかスピリチュアルなものを含めての総体としての教会)の一部に絶望感を覚え、失望し、そこに集うことに障害や困難を覚えていても、ある面、それができなくても、もしイエスに立ち戻り、イエスとともに生き、そして、神とともに生き、神とともに生きようとし、神に向き合うなら、それは『福音』に生きているのではないか、と思うのです。そして、神ご自身がその全人格をかけて私たちに『福音』に生きるようにお招きなのだと思います。

 つまり、荒野を歩くような生活をしているはぐれキリスト者、神から離れたかにみえるキリスト者、お一人様クリスチャン、教会卒業者、放浪の教会生活者であっても、背信のイスラエルを愛したもうた神は見放し給わず、共に歩こうとお招きになっておられることを確信する時、我々は、イスラエルの民の厚顔無恥を非難するのではなく、また自身のふがいなさを責めるでもなく、そこを見つめていじいじするでもなく、我らも背信のイスラエルの民の一部として、その神に立ち戻り、その神とともに生きる。その神を見つめることで今を生きるのが「福音」であり、その福音に生きることが「今、ここでも」できることを知っていただきたい(再発見していただきたい)、という思いをもって出版したいなぁ、と素朴に思ってしまったのです。思ったあとが大変ですけど。

ミーちゃんはーちゃんは教会も重要と思います
 上のようなことを書くと、「無教会派」の皆さんと混同されそうですが、ミーちゃんはーちゃんは、無教会派には属しておりません。むろん、無教会派の皆様も深く尊敬いたしております。そのお考えにミーちゃんはーちゃんは同意できない部分があるとしても。

 確かに、15年戦争中葉から末期、私のおりますキリスト者集団の諸先輩方のうちには、特高警察にいわゆる「無教会派」と間違われ、つけ狙われた方もおられます。何人かの諸先輩方のうちには、女性信徒を含め、治安維持法関連で取り調べを受けた方もございます。しかし、ミーちゃんはーちゃんは教会無用論者ではないと自らを省みて、そのように思います。他の方がどう思われるのはご自由ですが。

 リアルな信仰共同体として、この地上に形成されている「教会」の価値、とりわけ聖餐について非常に高く評価しております。それは、神の民として多くでありながら神にあって一つであることを、聖餐あるいは礼拝という形を通して、誰でもが参加することで、たとえ、講壇から語らなくても、その場に参加するだけでも、讃美歌を歌うだけでも、そして、聖書のことばを聞くことだけでも、声を発することなく福音を宣言できるのではないか、と愚考しているからでもあります。

 だからこそ、神とともに生きようとする人々には、できるだけ、自分以外の神の民とともに生きることにも立ち戻られることを様々な皆様方に個人的にはお勧めいたしております。

次回に続きます。

2013年7月11日木曜日

「福音の再発見」トークバックセッションご案内





 一部の皆様からの熱きご要望にお応えして、関東と関西でイベントを開催します。


 「福音の発見」をお読みいただいた方(まだ読んでない方も、これから読む予定の方も)集まって「福音の発見」よもやま話トーク(お茶飲み話)しませんか。いや、私たちは、皆様からの直接のお声を聴きたいです。ぜひ教えてください。

 ところで、発売からまもなく2ヶ月。予想を超えて多くの方に購入頂き、また色々なところから反応を寄せて頂いています。誠にありがとうございます。この場をお借りして、こころよりの御礼を申し上げます。

 また、さる6月23日には訳者の中村佐知さんの来日に合わせて、御茶ノ水CLC書店で「出版記念トークイベント」を出版企画に携わった者たちが中心になり実施いたしました。

 今回はイベントとしてはちょっとこじんまりしたミニイベントですが、お読みいただいた皆様、あるいはまだ読んでないけど、ちょっと話してみたい、という皆様とのお茶飲み話大会(いえ、意見交換)の場を設けたいと思います。今回のイベントの主役は「福音の発見」買ってくださり、読んでくださった皆様でございます。一応、話のきっかけとしてのミニトーク(10分)もありますけど。

 日曜の午後で出にくい時間帯とは存じますが、時間とエネルギーに余裕がある方は是非ご参加くださいますように



開催会場および時間
1. 神戸三宮の集い
 とき:   2013年8月11日)午後2-4時(時間中出入り自由)
 ところ: 神戸市勤労会館 応接会議室 (10名)         
         スコット・マクナイト研究会 名義

       神戸市勤労会館はこちら
        (http://www.kobe-kinrou.jp/shisetsu/kinroukaikan/index.html
       ミント神戸の東、サンパルの南、中央区役所の隣(三ノ宮駅から徒歩5分)


 なにするの:

   ミニトーク::巣鴨聖泉キリスト教会のタカ牧師、
      タイトル「福音の再発見」で大事なのは「どこから始めるか」です。

   ホスト  :ミーちゃんはーちゃん

   お茶飲み話
   その後はお茶を飲みながら自由にチャットチャット(福音の発見関連のお茶飲み話)
    お茶と紙コップ類、簡単なスナックはこちらで用意します。

 ※参加費 一人200円+自由献金(箱入れ形式)
 ※お問合せ kawamukaihajime*gmail.com 
           (*マークを半角の@に変えてください)
          TEL 090-1246-7027 (かわむかい)


2. 巣鴨の集い
 とき:  2013年8月25日)午後2-4時(時間中出入り自由)
 ところ: 木工房活水・ティールーム(8名)巣鴨聖泉キリスト教会 隣接

     アクセスはこちらhttp://www010.upp.so-net.ne.jp/Sugamo-Seisen/access.htm 

 なにするの: 
   ミニトーク:巣鴨聖泉キリスト教会のタカ牧師、
      タイトル「福音の再発見」で大事なのは「どこから始めるか」です。
 

   お茶飲み話
   その後はお茶(持込)を飲みながら自由にチャットチャット(福音の発見関連のお茶飲み話)


 ※参加費、一人500円
 ※お問合せ、sugamo_seisen*yahoo.co.jp
           (*マークを半角の@に変えてください)

        電話03-3946-8035

 
  なおスペースの関係上、1、2、いずれの集いも、準備の関係もございますので、前日までに「出席します」と一声お名前(メールの場合、お名前の読み方のカナ表記)、メールでお知らせいただけると誠に助かります。ご無理な方はお電話にて承ります。

2013年7月8日月曜日

発売後の反応⑤

タカ牧師です。

今までは「読者の反応」を紹介して来ました。

今回は「キリスト教書関連で仕事をしている者も一意見」と言うことで「業界の反応」と言うなかなか聞けない貴重なものをご紹介。
「なぜこの本が売れるのかについて」考えたことをお書きします。
本の売れ行きを左右する要素として①内容②タイトル③装丁(表紙・帯など)④著者の人気度⑤価格⑥発売時期⑦広告方法⑧口コミ・・・などがあげられますが、
この本は、特に①内容②タイトル③装丁が良かったと思います。
①内容:多くの人が知りたいのは、律法ではなく「福音」であり、その「福音」について直接の内容なので関心を引き付けた。
②タイトル:タイトルに「福音」という言葉が入っているのが良い。
また、「再発見」という表現は、今までの理解を否定するようなイメージがなく、その上でさらなる発見がありそうな期待が持てるので良い。
③装丁:タイトルが見やすく、親しみやすい装丁(堅苦しくない)。特に帯の「なぜ、多くの若いキリスト者が、今日、教会を去ってしまうのか?」というコメントが良い。
この問題は、日本の多くの教会が現在抱えている問題なので、この本を読めばその解決ができそうな気がする。
また、もしかするとこの本を読んで「良かった!」と思った読者が、⑧口コミで広めてくださっているのかもしれませんが、はっきりとした情報は掴んでおりません。
と言うことです。

近年キリスト教書籍は大変苦労していると聞きます。

ついコスト削減で「装丁」を簡単にしたりしていないでしょうか。
内容が良くても、やはり本の装丁は購入候補者との最初のインターフェース。
もっと大事にしてもいいかもしれませんね。

ではまた「反応」サーチしに行ってきます。

2013年7月3日水曜日

発売後の反応④

今回は関連ツイート(でのやりとりも含めて)を少し紹介しよう。







ブログ記事ではこんなのがある。
リンク
「問題意識は高いが、画竜点睛を欠くかも?」 と言う指摘、ある意味当たっている。
そして、著者なりに「福音とは?」どういうものかを提示しています。
(P.210〜216「福音の概略」)
「四つの法則」ならものの数分で説明が足りるところを、
著者のいう「福音」は朗読するだけで10分ぐらいかかるでしょうし、
キリスト教的素養がない中で理解できる人はごくわずかではないでしょうか?
(途中で「「それについては、いずれまた聞かせてもらうことにしよう」と言った。
(使徒言行録17:32新共同訳)というのが続出?)
なるほど。
でも(個人伝道の場面では)「四つの法則」の前後にやはり結構な時間を使うと思いますよ。
この本の読後感は、あえて言えば「???」という感じでした。
確信や信仰の喜びを実感する、というのにはほど遠いものがありました。
なぜでしょうか? 正しく福音を認識する、聖書全体を学ぶ、正しい正統信仰を持つ、
教会暦や使徒信条といった信仰の遺産を再評価するなど、
いろいろ書かれてはいますが、
この本において決定的に欠けているのは、聖霊様の御力です。
聖霊様抜きで、著者が主張するような「正しい」福音を語ったとしても、
説得力に欠けるものではないでしょうか?
(途中略)
聖霊によらなければ、だれも「イエスは主である」とは言えないのです。
(新約聖書コリントの信徒への手紙Ⅰ12:3新共同訳)
そういう意味で、深くて問題意識を提示したものの、聖霊様の働き、という「画竜点睛」を欠いてしまった、というのが、本書の実に惜しいところでした。
大変良いご指摘です。

実は最近北米において福音派も含めて(主流派は大分前から)礼拝出席者数、教会会員数が減少傾向にあることがはっきりしてきたようです。(ダイアナ・バトラー・バスの最近刊
彼女はその退潮傾向から再復興する鍵を「ビリーフ(信じている事柄)」中心の宗教からの脱却にヒントを求めているようです。

問題はただ単に「より正しく福音を語る」だけではないことは明らかだと思います。
しかしマクナイトも、彼の兄貴分のN.T.ライトも、聖霊抜きでは福音は効果を発揮しないことは織り込み済みです。
小嶋の理解では、マクナイトは、ほぼ前提にしていることを抜かしてしまった、と言うことだと思います。
福音の宣言はただ人が語るのではありません。
神のことばとして福音が語られる時(ローマ10:8-10)、聖霊が働くのです。

たとえ「四つの法則」であろうが、稚拙な伝道説教であろうが、イエスがメシアとして、主として提示される時、聖霊は聞く者に働いてその言葉を信仰を持って受け入れるよう促すのです。

そう理解すべきであろうと思います。

では何が異なるのか。
やはり「四つの法則」のような短縮形で福音を提示された人が、その後に福音理解を深めて行くことが大切なのです。
復活後の弟子たちがイエスを通して、聖書全体が約束の成就としてイエスを語っていることを理解する必要があったように。(ルカ福音書24章)

と言う訳で、今回は色々紹介しただけで、十分コメントすることができなかった方々には申し訳ありません。取上げただけの方々にも感謝申し上げます。

2013年6月30日日曜日

発売後の反応③

6月も今日で終わり。
2013年も早半年が過ぎます。今までのところ、タカ牧師にとっては充実した半年でした。

やはりその充実した半年を振り返ると「福音の再発見」の発売と言う出来事が大きいモメントでした。

さて先週、6月23日午後に、御茶ノ水CLC書店で出版記念トークイベントがあったのご存知でしたか。
その時の録画(一部だけ)と音声(一部抜けている)がここで視聴できます。
今からでもライブ感を味わってもらえます。ぜひ
(画面の下の方に視聴した方たちのコメントがありますから、そちらもお見逃しなく。)

ところで、そのイベントに参加した方から以下のようなコメントがありましたのでご紹介します。
(途中略)椅子の数が足りないくらいの盛会でしたね。
発行に至る貴重なお話を伺えて有意義でした。
今度は読書会というか、講解の場を設けて頂ければ助かります。
やはり普段神学に接する機会のない者には難しいです(>_<)
「福音派」「救い派」もそうだし、「メソジスト」「長老派」「改革派」「ウエスレー」「ルーテル」「根本主義」・・など教科書に出てくるような名詞は、歴史的なアウトラインはわかっているつもりですが、個々の教義(?)となるとさっぱり (?_?)
ボンヘッファー、ナウエン、バルト・・・なども名前だけしか知らないし。
これは「福音の再発見」の中身にはない話です。
当日ミーちゃんはーちゃんが用意した「『福音の再発見』に繋がる人物、本、運動」のような関係をビジュアル化したものへの感想だと思います。 (これをクリック

「難しい」と言う印象を持たれるのは当然と言えば当然。
プロテスタントの牧師たちは一部(タカ牧師のように)難しい説教をなさいますが、その他の牧師たち、またカトリックの神父たちは日頃至ってやさしい内容の(しかし心に沁みる)お話をしているようです。


しかしこのある意味「信者フレンドリー」な環境が、「固い食べ物」を食べる習慣を阻むことになっていないか、と思ったりもするのであります。

とにかく「難しい」らしいことはタカ牧師の身近でも反応として把握しています。

ある人はこう言います。
普段仕事で忙しく働いて帰って、夕食後色々やった後にちょっと出来た時間に「福音の再発見」を開いても、読み進むエネルギーが出てこない。(この本は理屈っぽいから余暇に読むには固すぎる。)
またある人はちょっと「福音の再発見」を手にしてみたが、パラパラとページをめくって「はいっ」と返したそうです。(こりゃ私には無理や・・・)と思ったのでしょう。

そんな反応も目にし、耳にし、「福音の再発見ファンサイト」としてはがっかりもしていられません。
何か有効なアフターケアーも考えなければ、と目下検討しているしだいです。
どんなアフターケアーができるか、具体的な提案を提示できるまでしばらくお待ちください。

さて最後になりましたが、一言お礼を申したい方がおられます。

いち早く本書を読まれ、その細部にまで目を通して「言い回し」や「横書き/縦書き」「用語」「文体」などなど、まことに貴重なご意見をくださった、C教会のY兄です。
この場を借りて関係者一同お礼を申し上げます。

幸い第2刷の準備に入る前に原稿を頂いたので、色々と参考にさせて頂くことができました。

ではまた読者の反応を拾ってみたいと思います。

このブログをお読みになっている方で、ご質問等ありましたらいつでもお待ちしておりますのでお寄せください。


《あて先》 小嶋崇 t.t.kojiアットマークgmail.com




2013年6月26日水曜日

新サイトでの初仕事

いやー、タカ牧師としては「福音の再発見」応援サイトがブロガーに引っ越してきて、大変ありがたく思っています。

引越しを準備してくださったミーちゃんはーちゃんには、感謝、感謝。

で、何からやろうか、ということなのですが、引越しのどさくさに紛れてしまわないように、久保木牧師が、福音の再発見発売後の反応」への反応①へ寄せてくださったコメントにお返しさせて頂こうかなと・・・。

ではちょっとメールでの引用形式でやらさせていただきます。

インストア・トーク・イベント、お疲れ様でした。何より、1冊の本を出版するために、どれだけの労力があるかが、伝わり、FBグループ内でのコミュニケー ションと労苦がひしひしと伝わってきました。そんな労苦に対し、読んで、さらっと書いた拙ブログ記事に応答してくださること、恐縮しております。
いやいやそんな恐縮なんて・・・。
それがそれほど「労苦」と言うほどでもないんですよ。録音の方に「出版のための冒険者たち」と言う非公開の秘密のFBグループを2012年1月に立ち上げたことが紹介されていましたが、実は(このことは録音には入っていなかったと思いますが)その過程で思わぬ副産物が出たのです。

それはN.T.ライトの読書会をやはり秘密のFBグループでやろうよ、と言うことになり、そこから後のHow God Became King読書会(非公開)がスタートしていったんです。

まっこれは今となっては裏話ですが、2012年3月初め頃はそんな準備でKさんとSさんと(別に伏せる必要もないんだけどミステリアスで面白いかなと思って)3人でもう楽しい・ワクワク・・・でやっていました。
小嶋先生が、イベントの中で、「この本は福音派だけに向けて書かれた本でなく、カトリックも含め、福音を宣言する全てのキリスト者に向けて書かれている」という主旨の発言が一番印象に残りましたし、私のブログ記事はそこの理解が大変甘いものであったことは否めません。
あーあの発言ね。最後の方になされたやつですね。

昨日聞き直してみて自分でもよくぞ言ったと思いました。

もちろん久保木先生が念頭にあったのではなく、現場での楽しい雰囲気で一過性で終わったらいけない、特に誰が今後聞くことになるか分からない「匿名の視聴者」がいることを思い出して、「福音派の内輪の祭り」と言う印象で終わって欲しくないな、と思っての発言でした。
福音派、福音主義について丁寧な定義を本記事で改めてしてくださっておられることを感謝致します。
あのベビントンの「福音主義の四重の特徴(Bebbington Quadrilateral)」は、恥ずかしながら、少し福音主義の研究をやっている人なら誰でも知っている、汎用性のある定義で、別に改めてご披露するほどのものではございません。
また「久保木先生は「個人の発見」と言う宗教改革の正の遺産(とマクナイトも多くのプロテスタント近代の視点に立つ者たちが評価する)と、近代啓蒙主義の 鬼子として現代社会の病巣の一つの原因となった「(行過ぎた)個人主義」と言う負の遺産の問題とを混乱させているように思われます。」と書いておられます が、そう受け取られても仕方がありません。ただ、マクナイト自身、行き過ぎた個人主義の問題を宗教改革が起源であるかのように97-98頁で書いているよ うにも思えます。

小嶋先生自身、「ご指摘の通り教会史における個人の救いに重心を移すパラダイム・シフトの叙述は簡略化された素描であり、教会史的な丁寧なものではありませんので、ご不満を持たれたとしても不思議ではありません。/確かにマクナイトの論点を明確にするだけの叙述に圧縮されていることはそうなのです。(でも このような性格の本に教会史の教科書のようなものを期待されてもそれはちと難しいと思いますが・・・。まっ議論のための圧縮と見てあげてください。)」と 書かれてあるとおりで、この本に関して、宗教改革の理解や個人の発見について喧々諤々やっても、不毛な議論だと思いますので、わたしもこの辺で止めておき たい思いです。
そう、ここではやらなくてもいいと思うけど、実際にはパラダイムシフトがどの辺りで決定的に起こったのか、と言う丁寧な研究は必要だと思います。
私の所属教団について神学的な流れについては、またいつの日にか、小嶋先生と個人的にお会いする機会があれば、お話できればと思います。これも、この本の 有益さを広げていくには、ここで書くのもどうかと思いますので。ちなみに、K先生は高齢ですが、神学校では現役で教鞭をとっておられます。
そうですね。いつの日にか・・・。
そうですか、まだ現役で、それは素晴らしい。
いろいろ書きましたが、本書の 図3 から 図2 へどのように移行していくのか、それを日本というコンテキストの中でどのように実現していくのか、そうした建設的な取り組みを何らかの形で共同でできていければ面白いと思います。
そうですね。これっまもなくN.T.ライトが翻訳出版される時もやはり同じ課題が出てくると思います。
既にライトFB読書会ではそのことをおぼろげながら意識しながら時々ディスカッションしています。

今回の出版も色んなコラボやシナジー効果の賜物だと思いますが、共鳴できた部分をベースに発展させることがあればトライしていこうではありませんか。
そしてアイデアを提供して頂ければ・・・。
ともかく、この度の出版への道そのものが、5人の神の民としての物語であり、その物語が、読者とつながる物語となり、またインストア・トーク・イベントとして、顔と顔を合わせてつながる物語となっていることを大変興味深く思っています。
長文を最後までお読みくださり、感謝致します。
そうですね。Kさんがまとめられた背景になっている「指輪物語」、恥ずかしながら誰のこと言われているのかきょとんと聞いておりました。
一緒に旅する神の民・・・今回の企画は言わばそのミクロ版で、もう少し大きなものに拡げていければいいですね。
久保木先生も少し乗りかかっているのではないですか。 (笑)

2013年6月25日火曜日

心より御礼申し上げます



ミーちゃんはーちゃんでございます。

先日は、お忙しい中、また、日曜日の午後の教会活動があり、出にくい中、大変たくさんの方にCLCBooksお茶の水店で開催されました「福音の再発見」出版記念トークイベントにご参加いただき、心より御礼申し上げます。誠にありがとうございました。

また、当日参加できないけれども...と言う方のために、Ust中継をこころろみましたものの、中継と言いつつも画像が悪い、途切れる、突然画像が出なくなる、止まるなど、放送局であれば、局長クラス、技術部長へのけん責、減給処分が出るような放送事故の連続、誠に申し訳ございませんでした。視聴者の皆さまのご迷惑に対し、深くお詫び申し上げます。

原因はほぼ判明しておりまして、フラッシュを用いたアプリケーションの複数動作によるソフトウェアコリジョンに加え、USBの供給電力不足による断線であることのではないか、というところまでは判明しました。また、プロジェクタ利用によるブラウザの表示異常(録画ボタンが表示されなくなる)に加え、オペレータのミーちゃんはーちゃんへの、映ってないなどの人間的信号入力によるオペレータのパニック、などまさにホーマー・シンプソン状態になってしまったことに原因がございます。

しかし、そうであっても、一部録画、一部音声信号が取れたものがございますので、下記アドレスでご覧いただければ大変幸甚に存じます。



http://www.ustream.tv/channel/king-jesus-gospel-japan
(下から順番に古いものです。前半1では、37分あたりから音が途切れてますし、最初の部分が取れておりません。ボタンの押し忘れによります。)
後半から終わりにかけて では、画像が全くございません。


なお、当日ご紹介した本の表紙の決定プロセス(ゾンダーバンによる、プロモ映像・ただし英語のみ)や私どもでこれらの本を読んでいただくのがよいのではないか、という本をあげたもの(関連が近いものほど、『福音の再発見』との距離が小さくなるように配置しています)、等のアドレスは以下のとおりでございます。先に進むには、右向き矢印 元に戻るのには、左向き矢印 ズームイン、ズームアウトは、ホイールマウスの場合ホイールを前後に動かすことで見ていただけますし、画面を移動させたい場合には、画面上のドラッグで移動させることができます。

ご参考までに。

表紙決定プロセス
http://prezi.com/wg-2vxlxfcxb/?utm_campaign=share&utm_medium=copy
http://prezi.com/wg-2vxlxfcxb/?utm_campaign=share&utm_medium=copy


関連書籍のご紹介
http://prezi.com/pwlu4e3on4pf/?utm_campaign=share&utm_medium=copy
http://prezi.com/pwlu4e3on4pf/?utm_campaign=share&utm_medium=copy

「福音の再発見発売後の反応」への反応①

タカ牧師です。

久し振りです。
現在自分の教会のブログ、NTライト読書会ブログ、NTライトFB読書会、と色々抱えて少し忙しい。

発売後1ヶ月が過ぎ、昨日御茶ノ水CLCブックセンターにおける出版記念インストアートークイベント(何と長いカタカナの名前!)も無事終了し、幾らか落ち着いた。

と言うところで既にご紹介した「反応」の中から面白そうなもの(このシリーズで取りあげないものは面白くないと言う意味ではありません。)、つまりどちらかと言うと辛口の論評を込めたものを取上げてインターアクションの場としたい。

それでトップバッターは、いち早く3本も速攻で書評を書いてくれた、久保木牧師のものからスタート。

いやそれにしても身軽で機敏と言うか・・・タジタジ。

十字架の贖罪死への一点集中が「福音」?
基本的に、この本が前提とする「福音派」とは
十字架による贖罪に一点集中の「福音」理解を持ち、
聞き手に決心をさせることを重視する人たちのようです。
いちいち脚注をつけると文章がうるさくなるので読者の方々には不親切だが適当にカタカナの名前も入れながらこの掴み方を考えてみよう。(参考までに拙ブログの福音主義とは何かをご覧あれ。)

ベビントンによる福音主義の特徴の一つとされるのが「十字架中心主義」だ。もう一つの「回心主義」も久保木先生のまとめ方でカバーされている。(残る二つは「聖書主義」と「(海外伝道や社会改革に向けた、と補った方が分かりやすいかな)行動主義」)

マクナイトが問題にしているのは、確かに「十字架中心贖罪論」であり復活がかなり視界から外れていたりすることを指摘していないわけではないが、ポイントは贖罪論といって過言ではない。

ただマクナイトの問題は福音派の
(十字架中心贖罪論で代表される)救済論そのものではない。復活の後退を問題視しつつも「救済論」の中身をどうこう言おうとしているわけではない。

45 ページの図2と、55ページの図3とを比較して頂くとお分かりになると思うが、福音の福音たりえる所以は、イエスが旧約聖書のストーリーを成就するという 枠組みの中で初めて「福音」の意味が明らかになってくるのに、言ってみればその基礎部分を捨象して、上物(建物)となる救いのメッセージがその物語から切 り離されて「四つの法則」のように簡略化された形で提示されていることを「矮小化」と言って問題視しているわけだ。

久保木先生は自教団での神学教育をご披露なさっているが、大変面白かった。
恐らくナザレンの神学的伝統(アルミニアン・きよめ派)にとっては対立軸となる改革派神学(バルト、モルトマン)からより大きい影響を受けた、と言う興味深い経歴の持ち主な訳ですね。
自派の神学的伝統にガチガチに縛られて他派の神学的伝統など一顧だにしない・・・何ていう態度よりはよっぽどおおらかでいいと思いますが、指導的な役割を果たしたであろうK先生の個人的な影響の故、となっていなかっただろうか。
果たして自派の神学的伝統とちゃんとした折り合いをつけた上での改革派神学の吸収だったのだろうか。

ま、でも、その後、神学校でウェスレーが語られなくなり、バルトやモルトマンの神学から、どちらかというと神の一方的な恩寵が中心に語られ、決心を問う傾向は大きく後退するようになったし、聖書信仰ではなく、批評学的な立場に立つ神学によって立つようになってきました。
との述懐にあるように、(タカ牧師も自派のことを超えて他の群れをとやかく言える立場にないのですが)いわゆる「つまみぐい」で神学的伝統が断絶したり、捩れたり、未消化のまま時に相対立する要素を内包したままになっている現状があるのではないでしょうか。
これは特に特定の教派の問題ではなく、自派の殻を破って他の神学的要素を積極的に取り込む、いい意味では懐の深い教団に表れやすい問題ではないかと思うのです。

K先生の引退なされた(?)後はどうなったのでしょう。K先生の個人の神学的遺産のままで終わり、教団のDNAとして受け継がれたのでしょうか。

その辺りの継承はなかなか難しいことではないかと思います。

さて大分脱線してしまったかもしれませんが、「福音の再発見」が自分の教団の神学的由来・その後の変化などを省みるきっかけになったとしたら、それもまた由ではないかと思います。

ナザレン教団のJEA加盟に関して取った態度など、実はもっと教えていただきたいところですが、余り風呂敷を広げてしまうと読者も混乱するでしょうからやめておきましょう。(福音派の聖書主義と批評的聖書学への態度が非加盟の理由なのかな、と推理しますが・・・。)

宗教改革のいちばんの貢献は(ルーテル派、改革派、アナバプテスト派、それぞれに)、福音の重心を人間の応答と個人的責任へと移動させたこと、そしてその責任を強調するような方向に向かって福音を発展させたことだった。(97頁)
と書いてあるんですけど、これが全く理解に苦しみます。
教理史の専門家はこれにどう答えるんでしょうね。
ルターが福音の重心を人間の応答と個人的責任へ移動させた?
そうなんですか???
宗教改革そのものというよりも宗教改革の流れを汲む中での発展として、福音が個人主義化してしまったとは思うんですが…。
久 保木先生は「個人の発見」と言う宗教改革の正の遺産(とマクナイトも多くのプロテスタント近代の視点に立つ者たちが評価する)と、近代啓蒙主義の鬼子とし て現代社会の病巣の一つの原因となった「(行過ぎた)個人主義」と言う負の遺産の問題とを混乱させているように思われます。

カトリック教会(宗教改革後のプロテスタント国民教会でも問題として継続しましたが)では教会と社会共同体は同心円の関係にあり、その地域共同体に生まれることは即(カトリック)教会の一員となることを意味していました。
そうすると自覚的信仰と言う観点からは「ノミナル(名前だけ)キリスト者」が大量発生しているわけです。
「個人の発見」は、その同心円の宗教・政治・社会共同体に包摂されていた間は、「個人」として析出される機会を得なかったわけです。
ルターは「95か条の提題」などと言う冒険をやったおかげで、教会の権威を一手に引き受けた教皇に反抗すると言うどえらい目に遭わされてしまったわけです。
彼が自己の良心に照らして自説を撤回しなかった時、(有名な)

"I cannot and will not recant anything, for to go against conscience is neither right nor safe. Here I stand, I can do no other, so help me God. Amen."
ここに神と人間の間に何者の人的権威を関与させない「個人の良心・尊厳」が確立した、と後代の(特にドイツの国民的)歴史家は見るわけであり、確かに「個人の発見」と言う歴史的モメントが見られるわけです。

(あーなんて長たらしい文章になってきたんだ。きのうあれほど○○さんの文章は長い、などと言っておきながら・・・。)

と言うわけでいい加減着陸せねばならんのではしょりますが、「ノミナルなキリスト者たち」に自覚的回心をして社会と一繋がりの同心円的教会とは区別された(その後は任意に加盟することになる)『教会』が目指されるようになったわけです。

ウェスレーのメソジスト運動も(ノミナルな)英国国教会の中に回心したキリスト者たちが核となって教会改革をすることを目指していたと思います。

久保木先生の指摘した「福音が個人主義化してしまった」のは、近代啓蒙主義の影響下で政治と宗教が分離され、宗教が個人的なこと(privatized religion)として(世俗化していく)プロセスで顕在化した現象ではないかと思います。

でもご指摘の通り教会史における個人の救いに重心を移すパラダイム・シフトの叙述は簡略化された素描であり、教会史的な丁寧なものではありませんので、ご不満を持たれたとしても不思議ではありません。
確かにマクナイトの論点を明確にするだけの叙述に圧縮されていることはそうなのです。(でもこのような性格の本に教会史の教科書のようなものを期待されてもそれはちと難しいと思いますが・・・。まっ議論のための圧縮と見てあげてください。)

まっ多少なりともインターアクトしたつもりですが、久保木先生が関心持たれた点をすべて網羅することはとてもとても出来ません。
幾つか絡んだと思っていただけたらそれで勘弁してください。

(こんなブログ記事書くの初めてだと思います。まるで往復書簡みたい・・・。)

それでは、久保木先生におかれましては、ますますその若さと才気煥発を用いて日本の教会を啓発し続けなされるよう、御ブログの発展を心よりお祈りいたします。

Originally Posted on 2013 Jun 25 by タカ牧師

CLCBooks お茶の水店で、インストアトークライブ同時中継

 来る2013年6月23日(日曜日) 午後2時ごろから、CLCBooksお茶の水店様の特設コーナーで、スコット・マクナイト著「福音の再発見」(キリスト新聞社刊)の発売記念イベント インストア・トークライブを開催いたします。

Poorな技術力でするので、画像は荒いし始めてやるので、間違い、事故等が起きないとも限りませんが、実施いたしますので、ご覧頂ければ幸甚でございます。

有線が使えそうにないので、画像はかなり粗いものとなりますが、よろしければお付き合いのほどを。


公開用の一応このアドレスになりそうです。(変更があれば、このサイトでご連絡いたします。)

よろしければどうぞ。

http://www.ustream.tv/channel/king-jesus-gospel-japan

Originally Posted on 2013 Jun 21 by ミーちゃんはーちゃん

第2刷 刊行決定でございます。m(_ _)m

 皆様、お待たせしております。

 特に、地方部の皆様、また、ネット書店経由で、お買い上げをご予定の皆様、お待たせしております。再刷 の作業に入りました。1ヶ月経つか経たないうちに、各地のキリスト教書店で、流通在庫切れ(今週の月曜日、お茶の水CLCで見てきましたが、お茶の水 CLC様には、流通在庫を確保しておられたらしく、在庫がございました。22日のインストア・トークショー用のイベント用にも、在庫を抱えていただいてい るようです。ありがとうございます。)

 実は、出版元のキリスト新聞社には、現在在庫がない状態。急ぎ、再刷の手配をいたしたのですが、微調整もあり、再刷決定が月曜日にずれ込んだ関係で、お待ちいただいております読者の皆様をはじめ、各地の書店関係者の皆様大変ご迷惑をおかけいたしております。

 すべて整いましたので、現在印刷を行っております。

 早ければ来週の水曜日、遅くとも、今月末には、キリスト新聞社様に1000部入荷する予定でございますので、今しばらくお待ちください。

  お待たせしております間、拙ブログ関係者全員が1押しの書籍、福音の再発見した結果、この地上でキリスト者としてどう創造的に生きるのか、ということにつ いての書籍、ポール・マーシャル著「わが故郷、天にあらず」をご推薦いたしく存じます。一度、手に取っていただき、ご高覧いただければ幸甚に存じます。

 これまでのご愛顧に心から感謝いたしますとともに、今後とも、引き続き、お引き立て、ご友人の皆様にもご紹介のほど、ず、ず、ずぃ~~とよろしくお願い、あ、も~~しあげます。

Originally Posted on 2013 Jun 19 by ミーちゃんはーちゃん

出版記念イベントのご案内

ミーはーちゃんでございます。

 あーとうとう、福音の再発見、出版されました。

まずは、お礼をば…

  皆様、お買い上げいただき、またご紹介いただき、心から御礼申し上げます。東京以外では、なかなかお手元に届かない、というお嘆きの声をお聞きいたしま す。これに関しては、こころから、お詫び申し上げます。楽天とか、Amazonとかでも、流通在庫が薄いために大変、ご迷惑をおかけしております。


流通が複雑のようで
 とはいえねぇ、これに関しては、既存流通経路に乗せている以上、致し方がない部分もございます。小説や新書の一般書の流通もいろいろ関係者にヒアリングしていると、結構複雑なんですが、キリスト教書は、もっと複雑。さらに、普通、こんなにキリスト教書売れないようです。

電書にできない理由もいろいろと・・・

  南の国のコメント王子wwのように、いっそ電書にしちまえ、という考えもないわけではなかったのですが、これは和書の場合だと何とかなっても、洋書の場合 は、オリジナルの本の版権をもっている会社との契約条項の関係で、かなり絶望的とならざるを得ないという諸事情がありまして・・・。

今しばらくのご猶予を
  Amazonでも流通にのりましたが、2013年6月3日現在 納入待ち、楽天Booksさんでも品切れ納入待ち、本屋タウンさんでも版元問合わせ中と、 皆様に大変ご迷惑をおかけいたしております。出版元のキリスト新聞社さんでも鋭意努力されておられるようですので、今しばらくご猶予をお願いいたし度。m(_ _)m


トークショーイベントのご案内
 ご猶予をお願いしておきながら、恐縮ではございますが、出版を記念して、翻訳者の方の来日が緊急決定したので、それに合わせて、この本が生まれた背景などの裏話などをゆるくお話しするトークショーをお茶の水のCLCさんで、開催いたします。

 ぜひお越しください。

  概要は、こんな感じ。

訳者来日で 緊急開催!
「つながる」とはこういうことだ!

それは、1冊の雑誌が新刊された時に始まった。
そして、一本のブログ記事がネット上に・・・。

Web3.0社会のキリスト教と
キリスト教書を考える

   福音発見            ――なぜ"救われた"人たちが教会を去ってしまうのか
   出版記念インストアトークライブ

ライブショー登場者   中村佐知さん(翻訳者)
   タカ牧師(本邦初の原著の紹介者)
   ミーはーちゃん (黒幕w)
   まっちゃん(出版社 担当代理)
とき 2013年6月23日(日) 14:00-16:00
ばしょ お茶の水クリスチャンセンター 2F 
    CLC Books
ひと ご関心のある方(入場無料)


ポスターはこちら。

Poster

Originally Posted on 2013 Jun 04 by ミーちゃんはーちゃん

福音の再発見、発売後の反応②

タカ牧師です。

聞くところによると「福音の再発見」初版は完売まもなくとのこと。
先ずは購入してくださった方々、御礼申し上げます。

購入予定の方はなるべくお早目の方がよろしいかもです。
老婆心ながら・・・。


なーんてこと書いてもタカ牧師はその辺のことについては又聞き程度のことしか知りませんので、確かなことは何も申し上げられません。お許しください。

では発売後の反応また紹介しましょう。

先ずブログ記事から。

①KGK(キリスト者学生会)関西地区主事、老松望さんのブログ「朝のうちにあなたの種をまけ」に、The King Jesus Gospelと本の原題で記事がアップされています。
この書は「福音」という言葉の理解にメスを入れるもの
自分の原体験や教会の常識を聖書に読み込むのではなく聖書そのものから、福音を捉え直すという精力的な内容だ
決して涼しい顔をして読めるものではなく
「そこまで言うか?」とヒヤヒヤすることもあるが
根気良く読み進めていくなら、必ず得るものがあるだろう
②日本ナザレン教団鹿児島教会、久保木聡牧師のブログ「久保木牧師のきらきら探訪」に以下のタイトルでなんと3本も速攻で書いてくださっています。
マクナイト著「福音の再発見」を読む1…背景の違い
マクナイト著「福音の再発見」を読む2…伝統的な神学、宗教改革に向き合う
マクナイト著「福音の再発見」を読む3…どう適用するか

久保木牧師は色々な角度からこの本の評価をしてくださっています。
(※なお久保木牧師が指摘されたポイントについて余裕がありましたら、この場で何か書いてみようと思っています。首を長くしてお待ちください。)

③オンライン、オフラインのコメントから(名前や出所は省略させて頂きます。)

スコット・マクナイトの「福音の再発見」を読んでいます。まだ、途中ですが、読みながら私の心にも指摘されている同じ疑問があったことに気がつきました。 また、福音は説明ではなく宣言だというのは、晴佐久神父の主張と同じでちょっとビックリしました。(^-^) いろいろ教えられています。

書き込みながら、下線を入れながらゆっくりですが読み進んでいます。
今まではっきりしなかった自分個人の救われ体験やその後の己の世界観、聖書観、歴史観が逸脱した状態ではなかったかな、と思い始めています。
2000年の、5000年の歴史の中の私を思いめぐらしております。
257pの解説が巻頭にあっても良かったかなという思いです。でも本を開いたらまず後ろから読めと聞いたことがあります、たしかにそうです。

マクナイトの「福音の再発見」読中。これ、すっごい面白い!そうそう!って感じ。先を読むのが楽しみすぎる。
といったところです。

ではまた「発売後の反応」がありましたらご紹介します。

Originally Posted on 2013 June 03 by タカ牧師

福音の再発見、発売後の反応①

タカ牧師です。

先週終了した「スコットさんってどんな人 インタヴュー編」には「いいね」を沢山頂きありがとうございました。

発売後10日が経ち、そろそろ反応がちらほらブログやFBで出始めているようです。


先ずありがたいことに教文館のイーショップ
の方では、ツイートが8件、「いいね」が55件、も頂いております。ありがとうございます。

またカトリックの
パウルスショップでも
ツイートが4件、「いいね」を3件、頂いております。
まあまあの売れ行きのようで応援団の一員としてはほっとしたりして・・・。

個人的にも知人の方々に買っていただいておりますが、10冊を越える数が出ておりまして、買っていただいた(予約注文中も含む)方々には感謝申し上げます。

ブログで親しくさせて頂いている「
のらくら者の日記」さんや、巨大クリスチャン・ブログ「命と性の日記」さんには紹介記事を掲載して頂き、広くこの本を知らしめて頂いて感謝です。

「のらくら者の日記」ブログでも引用されておりましたが、大変な読書家である、百姓とんちゃんさんの「どこかに泉が湧くように」では「
新刊書紹介」として本格的な紹介記事を書いて頂き、本書が提起している問題を鋭く指摘してくださり感謝です。

さらに
「どこかに泉が湧くように」の最新記事でも、ジョン・F・マッカーサーJr.『イエスの福音』を紹介しながら、テーマ的に重なるところの多い本書と比較して、
ただ私は、『イエスの福音』よりも、スコット・マクナイト『福音の発見』をおすすめします。今私たちに求められるのは、「イエスの福音」をもっとさらに包括的に見る視点だからです。
とご推薦いただき感謝です。

ではそんなところで一筆感謝のご報告をば。
2013/05/27


Originally Posted on 2013 May 27 by タカ牧師

スコットさんてどんな人⑥ インタヴュー(完)

タカ牧師です。

しばらく更新が滞っている間に「福音の発見」は予定通り発売されました。パチパチパチ。

では早速インタヴューの残りです。

さてマクナイト教授、これまでの質問で読者の方々も幾らかマクナイト教授と日本との関係について知ることができ、「福音の再発見」をより身近に感じられるようになったことと思います。
ではここで思い切って本の内容について、私(タカ牧師)が少々案じていることについてお聞きしたいと思います。
おや、いよいよインタヴューの核心部分かな。どうぞ何でも聞いてください。できるだけお答えしますよ。
マクナイト教授は本の中で、福音派と呼ばれる人たちは実際には「救い派」である、と指摘していますよね。福音派の人たちが提示する「福音」は、実際には新約聖書の言う福音ではなく、むしろ「救い(の計画)」なんだと言うご指摘です。
そ うだね、僕がこの本で主張しているのは、「“救いの”福音」とは人々が罪を認め、救いの決心に至らせるために、「救いについての教理」の諸要素を、論理を 整え順序よく配置したものであるのに、それを新約聖書が言う意味での福音だと(間違って)思い込んでいる、と言うことなんだ。
そ うですよね。だとすると私たち日本の福音派と言われるキリスト者たちも、基本的にはそのような「“救いの”福音」を聞いて「救われた」として来たわけです から、マクナイト教授の本を読むと「いや、それは聖書が言う意味での福音ではない。」と言うことになり、読者たちは「私は福音を間違って聞いていたのだろ うか。すると私はもしかしたらちゃんと救われていないのではなかろうか。」と戸惑いや動揺を覚えるのではないか、と言うことなんです。
マクナイト教授はそのことについてどう思われますか。

一つ大事なことを先ず確認しておこう。私は「“救いの”福音」の教理的な部分、その中核的部分については正しいと思っている。
しかしもし福音はこれだけだと限定するならば、それは新約聖書の福音の見方から外れてしまう、ということなんだ。
と言うことは「“救いの”福音」を聞いて「救われた」キリスト者は自分の救いを疑う必要はないと言うことでしょうか。問題はそのような「救いの確信」を如何に堅固に聖書的基盤に据え付けるか、と言うことでしょうか。
そうだね。だから私は日本の読者に望むのは、ちょうど使徒の働きに出てくるべレア人(注:使徒の働き17章11節)のように、「一体聖書は何と言っているか」と聖書自体に直接問いを向けて欲しいんだ。
マクナイトは聖書では福音をこうだと言っているが、果たしてその通りかどうか一つ聖書に当たって直に調べてみよう・・・とね。
「福音の再発見」を読んで戸惑いを覚えたり、疑問を感じたりしたら、それで終わりにしないで聖書に当たってマクナイト教授の書いていることがその通りかどうか私たち自身が調べてみなくてはならない、と言うことですね。
そ の通りだね。その時こう言う順番で調べて行って欲しい。先ずコリント第一の手紙の15章。それから使徒の働きに出てくる説教。それから福音書自体が福音な のかどうかを問うてみて欲しい。そしてテモテへの手紙第二の2章8節を読んで、そこに言われていることが福音かどうか問うて欲しい。
そうですか。やはりべレアの人たちのように熱心に聖書を調べることが大事なんですね。
そうだよ。だから日本のキリスト者たちが私の本を読み、さらに新約聖書へと向かっていただけたら、それで私の役割は果たせたことになる。
マクナイト教授、今回はインタヴューのために時間を取ってくださりありがとうございました。日本の読者に代わって御礼申し上げます。

(※以上でインタヴュー記事は終了です。)


Originally Posted on 2013 May 19 by タカ牧師

「福音の再発見」印刷上がり

 タカ牧師です。

「スコットさんてどんな人」のインタヴュー編を続けていますが、今日はいよいよ
カウントダウン
の目標日になりました。

現在の状況をお知らせします。

印刷上がりまできました。

(刷り上った本がキリスト新聞社に届いている画像はこちらでご確認ください。)

と言うわけで近日中に店頭に並んでいく予定です。

では期待してお待ちください。

Originally Posted on 2013 May 15 by タカ牧師

スコットさんてどんな人⑤ インタヴュー

「福音の再発見」出版まであと3日!
(今回はインタヴューの2回目。前回はコーヒーや日本食のことなど軽い話題から質問しました。今度はマクナイト教授と日本の関係について聞きます。)

マクナイト教授はおとなり韓国を含めて世界中あちこちの国々にいらしているようですが、日本はまだですよね。
日本についてはどんなイメージをお持ちですか。

そうだね、少し僕の生い立ちのことを話させて頂くけど、僕は海外伝道にとっても熱心な教会に育ったんだ。その教会は何人もの宣教師をサポートしていてね、その中に日本への宣教師もいたんだ。だからその宣教師が僕が日本を意識する最初のきっかけだったと言えるね。

そ うですか、私が最初にアメリカを意識できたのは小学校1年生の時、アメリカに旅行して帰ってきた先生がスライドでその旅行の様子を見せてくれたのですが、 とてつもなく遠い国に感じられて仕方なかったです。マクナイト教授にとって日本への宣教師一家を通して意識された日本はどんな存在だったのでしょうか。

僕の場合は日本をそんな遠い国として意識すると言うより、日本にいる宣教師家族のためにとにかく一生懸命に祈ることだったね。伝道活動が拡げられ、教会が建てられるように、教会の皆と祈った子供時代が懐かしいね。

そのお話を聞いて被宣教国である日本と、日本も含めて世界に宣教師を送り出す国アメリカと、育つ国によって「外国」を意識することがこんなにも違うのかと思わされました。
さて日本と言う国に対するイメージについて聞かせていただきましたが、具体的に「日本人」とはどんな関わりがおありでしたか。

そうだね印象に残っているのはノースパーク大学(注1)で教えていた時日本人の学生がいたよ。女子学生でね、とっても知的で、才能に恵まれていて、何よりしっかりした信仰を持っていた。彼女は母国に帰って日本の教会のために働くことを深く心に決めていた。
日本でキリスト者として生きることは、家族関係や社会との関係の問題があり、福音に忠実に生き抜くには大変困難な面があることを聞かされていた。だから、彼女のその覚悟を聞いて心にぐっと来るものがあったね。
だから僕の「キング・ジーザス・ゴスペル」が今回邦訳出版されることを聞いて大変光栄に思っているんだ。

(今回のインタヴュー質問はここまで。次回最後のインタヴューでは「福音の再発見」の内容について少し切り込んだ質問をします。)

注1:マクナイト教授は長らくノースパーク大学で教鞭を取っておられましたが(1994-2012年)、昨年からノーザン神学校(旧名ノーザン・バプテスト神学校)で教えておられます。

Originally Posted on 2013 May 13 by タカ牧師

スコットさんてどんな人④ インタヴュー

 「福音の再発見」出版まであと1週間!
追い込みに入っています。

発売予定日、5月15日は
順調ならということです。
もしかしたら多少の遅れがあるかもしれませんが、この応援サイトでは予定日を規準にカウントダウンしていきます。

今回は緊急事前インターヴューと言うことでお忙しい中ではありますが、著者のマクナイト教授にイーメールでインタヴューをさせていただきました。
マクナイト教授は頻繁に更新する
ジーザス・クリードというブログを抱えており、返事が来るには少し時間がかかるかなー、と思っていましたら、その日のうちに速攻でご返事くださいました。

もちろん英語でのやり取りですのでここでは翻訳して紹介するわけですが、ただそのまま翻訳するだけでは面白みにかけるかもしれないので、多少脚色がかかりますが、よりインタヴュー形式にしてお披露目させて頂きます。


始めまして、東京で小さな教会の牧師をしているKです。今日はよろしくお願いします。

こちらこそ。僕の本、キング・ジーザス・ゴスペルが日本語に訳されて出るんだって。大変光栄だ。こちらこそよろしく頼むよ。
はいそうなんです。もうこのプロジェクトに取り掛かって1年位になるのですが、発売予定日も5月15日に決まり、それで出版に合わせてこのインタヴューをしようと思い立ちました。今回はご協力ありがとうございます。

で、何から聞いてくれるのかな。遠慮なくどうぞ。と言ってもあまりプライベートなことは聞かないでよ。
えー!!! 実は予定していた質問は少しプライベート方面なのですがよろしいでしょうか。あのコーヒーのことです。マクナイト教授はかなりなコーヒー・ドリンカーだとどっかで読んだ気がするのですが、そうなんですか。
おや良く知ってるね。そう僕はかなりなコーヒー・ドリンカーだよ。エスプレッソもラテも好きだし、それからシカゴにはインテリジェンツィアというコーヒー(チェーン)店があるんだけど、ここにもしょっちゅう行くね。
では今度は食べ物の話題に移りたいのですが。マクナイト教授は日本食は何かご存知ですか。例えばスシなど食べたことおありですか。

あースシね、時々行くよ。そんなにしょっちゅうと言うわけじゃないけど。日本食じゃないけど、僕は韓国に行ったことがあるんだ。それでなんか韓国料理が好きになってね。それからこっちにある韓国料理店や日本料理店に行くようになったんだ。
そーですか。それを聞いて嬉しく思います。ところでご自宅で日本料理を作る・・・何てことはありますか。
さすがにそれはまだないね。誰か日本人の友達でも日本料理のレシピをくれたら作るかもしれないけどね。誰か教えてくれる。
(この部分の会話はここまで。実は翻訳者のはちこさんがお料理が得意なので、多分はちこさん直伝のレシピがマクナイト教授の元に届けられることになるでしょう。マクナイト教授、しばらくお待ちください。)

※インタヴューは次回に続く。Stay tuned.

Originally Posted on 2013 May 09 by タカ牧師

表紙ができました。

 皆様、おまっと様でした。スコット・マクナイト著、中村佐知訳「福音の再発見」表紙画像が来ました。


 

では、関西聖書神学校舎監先生であられる鎌野直人先生のご紹介文を。


 「福音」が語られ、「救われた」人々が起こされているはずなのに、教会のいのちが衰弱していると感じられる現代。個人の救いと教会としての歩みの間のギャップ、それを埋めたくても埋められないジレンマに直面している多くの教会。マクナイト氏は、伝えるべき「福音」が矮小化されているのがその原因ではないか、と問題提起しています。そして、イエスが体現し、使徒たちが宣べ伝え、福音書が物語っている「王」であるイエスの福音、それもイスラエルから始まる聖書の物語の中に深く根ざした福音を再発見することこそがいのち溢れる教会への道筋であると訴えています。『ケープタウン決意表明』にもつながる宣教的な福音が綴られている本書を、是非、ご一読ください。

  鎌野直人 (関西聖書神学校学監・日本ローザンヌ委員会委員)

関西聖書神学校舎監先生であられる鎌野直人先生の推薦文読んだ、あなた。

あ・な・た。 そう、そこのあなたです。もう欲しくなるっているのではないですか。ほら、もう。

2000プラス消費税、と大変お買い得価格となるようです。

 しかし、まだ、本屋さんには並んでいません。もう少しお待ちくださいね。2013年5月20日ごろには、書店に並びそうな模様ですので(あくまで、予定は予定)、その時までお待ちくだされ。

Originally Posted on 2013 May 07 by ミーちゃんはーちゃん

スコットさんてどんな人③

おはようございます、タカ牧師です。

GWも今日でおしまい。のんびり最後の休日を過ごしている人も多いかと思います。

いや、それとも明日からの仕事に気が回り始めてそわそわしている人もいるでしょうか。

仕事と休日、メリとハリ。(いやハリとメリ?どっちがどっちか分からないけど・・・。)

さてスコットさんの紹介が続いています。
スコットさんの著書最新作が「福音の再発見」なのですが、それ以前に出している本で
The Jesus CreedThe Blue Parakeetと言うのがあります。

前者はスコットさんのブログ・タイトルにもなっています。
クリードは「信条」のことで、ジーザス・クリードは「イエスの(基本的な)教え/戒め」くらいに思っていました。
(タカ牧師はどちらもまだ読んだことがありません。)

ブルー・パラキート(青インコ)に至っては、題名の意味が???でした。
このビデオでようやくこれら二つの本の意図しているところが分かったような気がします。

スコットさんは著名な新約聖書学者ですが、彼は新約聖書を知ることだけでなく、如何にそれを生きるか、と言うことに深い関心のある人だと分かりました。

このオリベット・ナザレン大学で行なわれた講演では、ブルー・パラキートの話から入ります。

ある時スコットさんが面白くもない本を読んでいる時、庭の藪に青い鳥が見えました。どんな鳥だろう色々見ていたのですが、やがてその鳥の周りに雀が集まってきました。
最初のうち雀はこの闖入者を警戒して、青インコが何か動きをする度にぱっと飛び去りました。

しかしやがて雀たちはこのよそ者の青インコを仲間と認めたようです。
この出来事をスコットさんは、イエスとイエスの周りに集まったアウトサイダーたちを読み解く喩えに用いているようです。

イエスの生き方は当時の立派な宗教家であるパリサイ人とは違っていました。
パリサイ人は律法を守る人しか仲間と認めてくれなかったけれども、イエスは娼婦・取税人たちを歓迎しました。
パリサイ人は「悔い改め」を仲間になる条件としましたが、イエスは最初から仲間に迎え入れたことによって彼らの人生が改まりました。

現代のクリスチャンは「よそ者」をどう受け止めるのか・・・と言う挑戦がブルー・パラキートのエピソードに込められているのですね。

ジーザス・クリードは旧約聖書の律法を二つの戒めに要約したイエスの教えを現しています。(マタイ22章34-40節)
神への愛と隣人愛。

これをユダヤ人たちのように日々何回も唱え、また実践することの大切さをスコットさんは深く考えています。

その影響を受けた飛び切り優秀な学生が卒業後の進路を相談しにスコットさんの元に来たそうです。
進路①:デューク大学神学部から奨学金をもらって、スタンレー・ハウアーワス教授の元、修士と博士を取得する。
進路②:この学生が始めたホームレスへの奉仕を継続するためこの地に残る。

スコットさんは、「貧しい者たちはいつもあなたと共にいる。学業を終えてからでも遅くない。進学せよ。」と勧めたそうですが、この学生は結局②を選び、その後も首都ワシントンでジム・ウォーリス率いるソージャナース(キリスト教精神に基づく社会正義運動)へと進んで行ったそうです。

「福音の再発見」が問題にしている「個人的救いに特化したキリスト教」の問題は、ミーイズムに捕らわれ、イエスが教えた愛の実践に踏み出さない、貧弱な「福音」だ・・・と言うのがこの本が書かれた背景にあるようです。

ではまた次回。


Originally Posted on 2013 May 06 by タカ牧師

スコットさんてどんな人②

 「福音の再発見」出版まであと12日!


タカ牧師です。

著者、スコット・マクナイトってどんな人か紹介して行こう・・・と言うわけで、前回は彼に影響を与えた4冊の本を紹介している動画を埋め込もうとしたのですが上手く行きませんでした。

と言うことはこの「著者紹介シリーズ」はテキスト中心になるようですね。

(著者スコット・マクナイトはマクナイト教授とでも呼ぶべきかもしれないが、彼はアメリカで長い間大学の先生をしていて、スコットとファースト・ネームで呼ばれるのが普通だったようなので、「スコットさん」呼んでいます。)

生い立ちを紹介しようとウィキペディアを参照してみたのですが、生年月日等幼少のことは殆んど紹介されていません。
イリノイ州で生まれ、イリノイ州フリーポートで育ったとあるだけです。
少し情報が豊かになるのは「大学生活」から。

グランド・ラピッズ・バプテスト大学(現在はコーナーストーン大学と改名しています。)を卒業しているのですが、その時影響を受けた二人の先生について《ジーザス・クリード》で記事を書いています。

大学時代の先生

お一人目の先生の名は、ジョー・クロフォードさん。
大学最初の日に出会った先生が、スコットさんのメンターとなり、将来聖書の教師になろうと思わせた方だそうです。

he taught me to think for myself, to read the Bible on my own, to use concordances, to read scholarship, and to buy books.
自分の頭で考える・・・ことを教えてくれる先生は本当いい先生だと思います。

お二人目の先生は、ロン・メイヤース博士。
哲学の先生だったので思わず哲学専攻に進もうかと思ったそうです。
He had the knack of making you think you had a good question even if he had heard it many times before and even if it was “stuck on stupid."
この先生も教え上手ですね。生徒が大した事ない質問しても、「いい質問だ」と勇気付けてくれるわけですから。
向学心アップ間違いなしですね。

この他、根本主義バプテストとして育ったこと(本著の『1971』でその片鱗がうかがわれます。)、「明日にも携挙があるかもしれない」雰囲気の中で育ったこと、バスケットボール選手だったこと、などが紹介されています。



タカ牧師が一番興味持ったのは、スコットさんが大学近くの本屋(多分アードマンズかな?)新本でガタガタになったキリスト教書を90%オフになっているのを見つけて買うこと、というくだり。

いやこれは一種の狩猟本能に近いものがありますね。
タカ牧師も北加にいた時、中古書店を徘徊しながら「掘り出し物」をゲットしようと躍起になっていました。

と言うわけで、また次回。

Originally Posted on 2013 May 03 by タカ牧師