今回は、第8章『ペテロの福音』の後半を紹介します。
章のタイトルは『ペテロの福音』ですが、使徒たちの「福音」が聴衆によっても変わらぬ「イスラエルのストーリーを完結するイエスのストーリー」であることを、パウロの説教で確認します。
ご存知パウロは「異邦人への使徒」であり、使徒行伝に収録されているパウロの説教も異邦人が聴衆です。
ではユダヤ人と異なり、聖書的背景を持たない異邦人にもパウロは同じように「福音」を語ったのでしょうか。
結論から言うと、「イエス」です。
しかし応用はなされています。
その辺をマクナイト教授はこの章の後半で見ようとしています。
使徒行伝14章のルステラでは、パウロとバルナバが、「神々の降臨」と町の人に間違われ、危うく礼拝されようとします。
「偶像崇拝」を押し留めたパウロは、「福音」説教を「真の神であるお方」と「神の善性」に焦点を絞って語ります。
「イスラエルのストーリー」はここでは「創世記に見られる創造者なる神」のストーリーです。
使徒行伝17章、アテネのアレオバゴスの説教でも、やはり「創造者なる神」を中心として「福音」は語られます。
ここではパウロは「イエス・キリスト」も「イエス・キリストの十字架の死」も語りません。
聴衆の理解度に合わせて「福音」の語り方を調整しているのです。
パウロは説教の最後で「死者の中から復活した審判者であるお方」のことをギリシャ人に提示します。
ここから「その人間(イエス)とは誰だ。」「どのようにそんな権威が与えられているのだ」と言う聴衆の疑問が引き出され、そこから「福音」が語られる筋道が出来ます。
パウロは聴衆によって「福音」の語られ方を調整しているのです。
使徒たちの説教は単なる教え・アイデアの伝達で終わりません。
説教を聞いた者たちに「応答」を求めるのです。
使徒行伝2章のペンテコステ説教や10-11章にも見られるように「イエスのストーリー」を聞いた者たちは、「信じ」「悔い改め」「バプテスマを受ける」ように応答が求められているのです。
信仰・悔い改め・バプテスマ、これらは互いに関連しています。
どのように関連しているか、マクナイトは次のような関連付けを試みています。
faith is the big idea with repentance and baptism as manifestations of that faith. The one who turns in belief to Christ turns away from (the word picture in the word repent) everything and everyone else - and Paul calls them to turn away from idols (Acts 14:15) - and the one who trusts in Christ obediently embodies that faith in baptism. (p.129)
(※この分析は現在の個人的回心がしばしば一種の贖罪論(説)を信じることとなり、洗礼とは切り離され体験となることと比較すると重要な指摘を含んでいます。)
「福音」は贖いをもたらすものですが、その聖書的表現は一様ではありません。
使徒たちは様々な表現を用います。
マクナイトが最初の方の章で指摘したように「信仰義認」を福音そのものであるかのように受け取る見方がありますが、少なくとも使徒たちの福音がもたらす「救い」の表現の仕方はそのようには限定されていません。
Jesus saves, and it is the telling of his story that prompts people to respond in faith, repentance, and baptism and so be saved - forgiveness, the Spirit, refreshing, and the new community of God made of Jews and Gentiles alike. (p.131)さてここまででマクナイトの言う「福音」理解を支える『椅子の4脚』が揃うことになります。
『椅子の4脚』とは、
①使徒的福音伝承(Ⅰコリント15章)
②イエスの福音
③四福音書の福音
そしてこの8章で見たように
④使徒行伝の福音説教
以上です。
ではこれをベースに如何に今日的に「福音」を語るか、が次の章の課題となります。
Originally Posted on 2012 July 24 by タカ牧師
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