2013年6月25日火曜日

「福音の再発見発売後の反応」への反応①

タカ牧師です。

久し振りです。
現在自分の教会のブログ、NTライト読書会ブログ、NTライトFB読書会、と色々抱えて少し忙しい。

発売後1ヶ月が過ぎ、昨日御茶ノ水CLCブックセンターにおける出版記念インストアートークイベント(何と長いカタカナの名前!)も無事終了し、幾らか落ち着いた。

と言うところで既にご紹介した「反応」の中から面白そうなもの(このシリーズで取りあげないものは面白くないと言う意味ではありません。)、つまりどちらかと言うと辛口の論評を込めたものを取上げてインターアクションの場としたい。

それでトップバッターは、いち早く3本も速攻で書評を書いてくれた、久保木牧師のものからスタート。

いやそれにしても身軽で機敏と言うか・・・タジタジ。

十字架の贖罪死への一点集中が「福音」?
基本的に、この本が前提とする「福音派」とは
十字架による贖罪に一点集中の「福音」理解を持ち、
聞き手に決心をさせることを重視する人たちのようです。
いちいち脚注をつけると文章がうるさくなるので読者の方々には不親切だが適当にカタカナの名前も入れながらこの掴み方を考えてみよう。(参考までに拙ブログの福音主義とは何かをご覧あれ。)

ベビントンによる福音主義の特徴の一つとされるのが「十字架中心主義」だ。もう一つの「回心主義」も久保木先生のまとめ方でカバーされている。(残る二つは「聖書主義」と「(海外伝道や社会改革に向けた、と補った方が分かりやすいかな)行動主義」)

マクナイトが問題にしているのは、確かに「十字架中心贖罪論」であり復活がかなり視界から外れていたりすることを指摘していないわけではないが、ポイントは贖罪論といって過言ではない。

ただマクナイトの問題は福音派の
(十字架中心贖罪論で代表される)救済論そのものではない。復活の後退を問題視しつつも「救済論」の中身をどうこう言おうとしているわけではない。

45 ページの図2と、55ページの図3とを比較して頂くとお分かりになると思うが、福音の福音たりえる所以は、イエスが旧約聖書のストーリーを成就するという 枠組みの中で初めて「福音」の意味が明らかになってくるのに、言ってみればその基礎部分を捨象して、上物(建物)となる救いのメッセージがその物語から切 り離されて「四つの法則」のように簡略化された形で提示されていることを「矮小化」と言って問題視しているわけだ。

久保木先生は自教団での神学教育をご披露なさっているが、大変面白かった。
恐らくナザレンの神学的伝統(アルミニアン・きよめ派)にとっては対立軸となる改革派神学(バルト、モルトマン)からより大きい影響を受けた、と言う興味深い経歴の持ち主な訳ですね。
自派の神学的伝統にガチガチに縛られて他派の神学的伝統など一顧だにしない・・・何ていう態度よりはよっぽどおおらかでいいと思いますが、指導的な役割を果たしたであろうK先生の個人的な影響の故、となっていなかっただろうか。
果たして自派の神学的伝統とちゃんとした折り合いをつけた上での改革派神学の吸収だったのだろうか。

ま、でも、その後、神学校でウェスレーが語られなくなり、バルトやモルトマンの神学から、どちらかというと神の一方的な恩寵が中心に語られ、決心を問う傾向は大きく後退するようになったし、聖書信仰ではなく、批評学的な立場に立つ神学によって立つようになってきました。
との述懐にあるように、(タカ牧師も自派のことを超えて他の群れをとやかく言える立場にないのですが)いわゆる「つまみぐい」で神学的伝統が断絶したり、捩れたり、未消化のまま時に相対立する要素を内包したままになっている現状があるのではないでしょうか。
これは特に特定の教派の問題ではなく、自派の殻を破って他の神学的要素を積極的に取り込む、いい意味では懐の深い教団に表れやすい問題ではないかと思うのです。

K先生の引退なされた(?)後はどうなったのでしょう。K先生の個人の神学的遺産のままで終わり、教団のDNAとして受け継がれたのでしょうか。

その辺りの継承はなかなか難しいことではないかと思います。

さて大分脱線してしまったかもしれませんが、「福音の再発見」が自分の教団の神学的由来・その後の変化などを省みるきっかけになったとしたら、それもまた由ではないかと思います。

ナザレン教団のJEA加盟に関して取った態度など、実はもっと教えていただきたいところですが、余り風呂敷を広げてしまうと読者も混乱するでしょうからやめておきましょう。(福音派の聖書主義と批評的聖書学への態度が非加盟の理由なのかな、と推理しますが・・・。)

宗教改革のいちばんの貢献は(ルーテル派、改革派、アナバプテスト派、それぞれに)、福音の重心を人間の応答と個人的責任へと移動させたこと、そしてその責任を強調するような方向に向かって福音を発展させたことだった。(97頁)
と書いてあるんですけど、これが全く理解に苦しみます。
教理史の専門家はこれにどう答えるんでしょうね。
ルターが福音の重心を人間の応答と個人的責任へ移動させた?
そうなんですか???
宗教改革そのものというよりも宗教改革の流れを汲む中での発展として、福音が個人主義化してしまったとは思うんですが…。
久 保木先生は「個人の発見」と言う宗教改革の正の遺産(とマクナイトも多くのプロテスタント近代の視点に立つ者たちが評価する)と、近代啓蒙主義の鬼子とし て現代社会の病巣の一つの原因となった「(行過ぎた)個人主義」と言う負の遺産の問題とを混乱させているように思われます。

カトリック教会(宗教改革後のプロテスタント国民教会でも問題として継続しましたが)では教会と社会共同体は同心円の関係にあり、その地域共同体に生まれることは即(カトリック)教会の一員となることを意味していました。
そうすると自覚的信仰と言う観点からは「ノミナル(名前だけ)キリスト者」が大量発生しているわけです。
「個人の発見」は、その同心円の宗教・政治・社会共同体に包摂されていた間は、「個人」として析出される機会を得なかったわけです。
ルターは「95か条の提題」などと言う冒険をやったおかげで、教会の権威を一手に引き受けた教皇に反抗すると言うどえらい目に遭わされてしまったわけです。
彼が自己の良心に照らして自説を撤回しなかった時、(有名な)

"I cannot and will not recant anything, for to go against conscience is neither right nor safe. Here I stand, I can do no other, so help me God. Amen."
ここに神と人間の間に何者の人的権威を関与させない「個人の良心・尊厳」が確立した、と後代の(特にドイツの国民的)歴史家は見るわけであり、確かに「個人の発見」と言う歴史的モメントが見られるわけです。

(あーなんて長たらしい文章になってきたんだ。きのうあれほど○○さんの文章は長い、などと言っておきながら・・・。)

と言うわけでいい加減着陸せねばならんのではしょりますが、「ノミナルなキリスト者たち」に自覚的回心をして社会と一繋がりの同心円的教会とは区別された(その後は任意に加盟することになる)『教会』が目指されるようになったわけです。

ウェスレーのメソジスト運動も(ノミナルな)英国国教会の中に回心したキリスト者たちが核となって教会改革をすることを目指していたと思います。

久保木先生の指摘した「福音が個人主義化してしまった」のは、近代啓蒙主義の影響下で政治と宗教が分離され、宗教が個人的なこと(privatized religion)として(世俗化していく)プロセスで顕在化した現象ではないかと思います。

でもご指摘の通り教会史における個人の救いに重心を移すパラダイム・シフトの叙述は簡略化された素描であり、教会史的な丁寧なものではありませんので、ご不満を持たれたとしても不思議ではありません。
確かにマクナイトの論点を明確にするだけの叙述に圧縮されていることはそうなのです。(でもこのような性格の本に教会史の教科書のようなものを期待されてもそれはちと難しいと思いますが・・・。まっ議論のための圧縮と見てあげてください。)

まっ多少なりともインターアクトしたつもりですが、久保木先生が関心持たれた点をすべて網羅することはとてもとても出来ません。
幾つか絡んだと思っていただけたらそれで勘弁してください。

(こんなブログ記事書くの初めてだと思います。まるで往復書簡みたい・・・。)

それでは、久保木先生におかれましては、ますますその若さと才気煥発を用いて日本の教会を啓発し続けなされるよう、御ブログの発展を心よりお祈りいたします。

Originally Posted on 2013 Jun 25 by タカ牧師

1 件のコメント:

  1. インストア・トーク・イベント、お疲れ様でした。何より、1冊の本を出版するために、どれだけの労力があるかが、伝わり、FBグループ内でのコミュニケーションと労苦がひしひしと伝わってきました。そんな労苦に対し、読んで、さらっと書いた拙ブログ記事に応答してくださること、恐縮しております。

    小嶋先生が、イベントの中で、「この本は福音派だけに向けて書かれた本でなく、カトリックも含め、福音を宣言する全てのキリスト者に向けて書かれている」という主旨の発言が一番印象に残りましたし、私のブログ記事はそこの理解が大変甘いものであったことは否めません。

    福音派、福音主義について丁寧な定義を本記事で改めてしてくださっておられることを感謝致します。

    また「久保木先生は「個人の発見」と言う宗教改革の正の遺産(とマクナイトも多くのプロテスタント近代の視点に立つ者たちが評価する)と、近代啓蒙主義の鬼子として現代社会の病巣の一つの原因となった「(行過ぎた)個人主義」と言う負の遺産の問題とを混乱させているように思われます。」と書いておられますが、そう受け取られても仕方がありません。ただ、マクナイト自身、行き過ぎた個人主義の問題を宗教改革が起源であるかのように97-98頁で書いているようにも思えます。

    小嶋先生自身、「ご指摘の通り教会史における個人の救いに重心を移すパラダイム・シフトの叙述は簡略化された素描であり、教会史的な丁寧なものではありませんので、ご不満を持たれたとしても不思議ではありません。/確かにマクナイトの論点を明確にするだけの叙述に圧縮されていることはそうなのです。(でもこのような性格の本に教会史の教科書のようなものを期待されてもそれはちと難しいと思いますが・・・。まっ議論のための圧縮と見てあげてください。)」と書かれてあるとおりで、この本に関して、宗教改革の理解や個人の発見について喧々諤々やっても、不毛な議論だと思いますので、わたしもこの辺で止めておきたい思いです。

    私の所属教団について神学的な流れについては、またいつの日にか、小嶋先生と個人的にお会いする機会があれば、お話できればと思います。これも、この本の有益さを広げていくには、ここで書くのもどうかと思いますので。ちなみに、K先生は高齢ですが、神学校では現役で教鞭をとっておられます。

    いろいろ書きましたが、本書の 図3 から 図2 へどのように移行していくのか、それを日本というコンテキストの中でどのように実現していくのか、そうした建設的な取り組みを何らかの形で共同でできていければ面白いと思います。

    ともかく、この度の出版への道そのものが、5人の神の民としての物語であり、その物語が、読者とつながる物語となり、またインストア・トーク・イベントとして、顔と顔を合わせてつながる物語となっていることを大変興味深く思っています。

    長文を最後までお読みくださり、感謝致します。

    鹿児島の久保木先生より (代理投稿)

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