2013年6月25日火曜日

最終章 福音の文化に生きる(1)

 はい、みなさん、こんにちは。

ようこそお越しくださいました。今日は、キング・ジーザス・ゴスペルの最終章10章の内容をスニークプレビューしてみようかと。大体この賞は、まとめの章で、もともとコンパクトにまとまっているので、かなりまとめにくいが、できるだけのことはしてみよう。

 福音とは、イエスと使徒たちとによるいのちの物語の解釈である。福音こそいのちの源泉であり、福音こそ真理といのちに続く道なのである。福音を知らずに福音の文化を築けないので、福音と福音の文化という二つの概念を見てみよう。

 福音を把握するためには、神がこの世で何をなさっているのかを把握する必要があり、それはつまり、一つの大きな物語を語るということなのだ。

  あー、これ、NTライトというおじさんがいっつも言っている話とよく似ている。そのうち日本でも、NTライトの本が出るらしいけど、基本、あのNTライ トっていうおじさんが言っている聖書全体を読んでそれを一貫したものとして考えるべきだって主張とよく似ているのだね。ということで、NTライトの所説に は、「え、何が新しいん?あったり前じゃん」という反応も結構多いらしい。新約学者としてはいいのだけれども、牧会の現場としては困る、というところもあ るのかもしれない。そりゃ、ライトに推薦のことばを頼んだのもうなずけるってもんで。

 多くの人が思っているような、福音をカード一枚に凝縮することができるといった考えは、そもそも間違っているということになる。

 まぁ、この種の無理ゲーする人も多いので・・・・うちのキリスト者集団なんかでも。

 初めに神は、二つのエイコン(神の形(なり・似姿)に造られた者)として、アダムとエバを創造したもうた。初めに神は、一つの事を与えたもうたのだ。それは、この世界を、神に代わって治めることだったのだね。

 (以 下八重の桜の綾瀬はるか風で)だけんじょ、アダムとエバは神の言うことも聞がねーで、神の特権を侵してしもうたんだ。そったもんで、神の支配を簒奪してし もーて、ヘビっこと自分たちさーの声に従い、エデンっちゅうところでの、神といっしょに統べ治さめるっちゅう機会を台無しにしてしもうたんだと。ちーッと の間だったんだけじょ、この二人は、神を演じてしもうたんだと。(しかし、こう書いてみると、会津方言と栃木方言の類似性はあるよね。)

 コホン、コホン。普通の日本語に戻します。

  実に残念なおしらせではあるが、アダムとエバの子孫である人間は皆、同じパターンを踏襲したんだな。これが。結局、人間はみな、大なり小なり簒奪者なんだ ね。なので、人間は、神のもとで神と共に働く統治者ではなく、自ら神となって他人や、ほかの者に対する支配をしたがっちまうのだなぁ。これが。
 
 これが行き過ぎるとサイコパスになる。アメリカのサイコパスがどんだけえぐいか、については、Law and Order Criminal Intentあるいは、Criminal Mindsを見るのがよろしい。結構勉強になる。Criminal Mindsはちとえぐすぎるので必ずしもお勧めは致しかねますが・・・・。アメリカで教会がこのサイコパスに乗っ取られてカルト化した事例もあるようなないような…


  神は、ご自身とアブラハムとイスラエルの間に契約を置かれたもうた。それは、永遠の契約、贖いの契約となるはずのものだったのだ。神は、イスラエルの守護 者(護民官・President)として、イスラエルと共にいると約束されたもうたのだね。神は、アダムとエバに与えた統治の役割を、アブラハム、そして イスラエルに委譲したもうたのだね、

 神は彼らを選びの民とされたもうたので、彼らがエジプトで奴隷だったときも共におられ、彼らの守護者であり続けられた。神は、モーセという人物を通してイスラエルの民をエジプトから解放したもうたのだね。

  しかし、ここでまた残念なことに、イスラエルは他の国々のように王を求めちまったんだなぁ。神は、王権を設立することについて、最初は躊躇されたもうた が、最終的には、人間という簒奪者たちが望んだもの、すなわち人間を王として定めたもうた。サウルやダビデなどの王は、神の代理人としてこの地を統治する ための第三の形だったはずなのだが、彼らもまた簒奪者となって王としての統治に失敗した。サウルに至っては、口寄せに頼るという大変残念なことを人生の末 期にしている。

 結局、どの王も結局は簒奪者になっちゃった。そこで神は預言者たちを送り、王たちへの警告を与えたもうたのだ。預言者たちが叫んだことは、「唯一の統治者、唯一の真の王、唯一の神がおられる、その名はYHWH(ヤハウェ)である」だったんだね。

 耳があっても聞かないのは、世の習い、としか言えない、というもはや大変残念なお知らせ。どこでもありそうな話だなぁ。

 数百年にわたる沈黙の後(まぁ、外典を見ればそうでもないような気もするが、プロ系の人はこの記事の筆者でもあるミーはーちゃんを含めてあまり読まないので・・・・)、神は最後の計画を実行に移したもうたのだね。アダムとエバの子孫であると同時に子孫ではない方、簒奪者となることなく、この世を正しく治めることのできる方(=神)を歴史の中に送り込まれたのだなぁ。これが。それが、ナザレのイエス(ヨシュア:神は我が救い)を送られたのだね。そして御使いを通して、イエスは、後日イエスかメシア(メシアはヘブル語、それをギリシア語にすると、キリスト。したがってメシア=キリスト)として、神に代わって統治するようになるとマリヤに語られたんだな。これが。

 (この経緯はルカ福音書を参照のこと。)

  ナザレのイエス君は、人々をありとあらゆる問題から癒し、助け出し、赦し、救い、癒し、新しくされた人たちのための食卓につかせ、簒奪者を「愛される者」 に大転換したにもかかわらず、子孫たち(ローマ人とユダヤ人の両方)はイエスを殺すほうが、彼らにとって、非常に都合がよいと考えた。ご都合主義者の彼ら は、イエスに自分たちの邪魔をされることを恐れたので、イエスを最も低劣な方法である十字架で殺しちゃったんだよね。エルサレムの郊外のゴルゴタの丘のう えで。そして、簒奪者たちが支配権を握ったんだな。ユダヤを排除した後、ローマ帝国って形で。

 ローマ人はもちろん、当時のユダヤ人や、 復活を現実のものして目の当たりにするまでの弟子たちも、本来なら自分たちがその罪のゆえに被るべき死と簒奪の中に、実はイエスは入って行かれたのだとい うことを知らなかった。自らを神とする性質(罪)をもつ神の座の簒奪者が当然死ぬべき死を死なれたもうたのだね。イエスは彼らの罪(自らを神の座に座らせ ようとする性質)とその罪ゆえの神の当然の怒りを、ご自身の双肩に負われたのだ。イエスがこうすることではじめて、は彼らの簒奪を覆すことができ、また彼 らの死を覆し、もう一度やり直すことができることを。

 どうも、日本では、罪をいつの間にか倫理的な罪(人倫に反すること)、道徳的な罪(社会通念に反すること)と簡単に置き換えてしまっている人たちが多いのだが、聖書が言っている罪とは、そんな人間対人間の世界で考えられるちっぽけなことではない、とミーはーちゃんは思うぞ。神の座を奪っていること、自分が支配しようとしていることこそが問題なのだ。勝手に世界征服を図ろうとしていることが、神の権利を大きく損なう行為なのだ。

  神は、簒奪者たちの選択で全てが決まるわけではないことを示し、アダムとエバの子孫たちも全く新しい(創造の)家系に属すことが可能であることを示し、死 の支配を終わらせるため、イエスを死からよみがえらせた。これらすべてのことを明らかにするために、イエスは大勢の人々の前に現れ、それから神のもとに昇 られせしめられたもうた。

 まぁ、人間は簒奪者として、自 分の思う通りに何でもなる、自分の努力によって、自分自身の働きによって全部がきまると思っているけれども、そんなんじゃないよね、というのがヨブ記の思 想である思想であるだろう。そして、死のすでに支配しない、ということこそが、パウロの第1コリント15章の主張なんだろうなぁ、と思う。

  神に立ち返り、ナザレのイエスが神であることを認めるなら、聖霊によって人々は力を受け、神の座から神を無理やり蹴とばして、追い出してしまった簒奪者か ら、神の愛、平和、公正、神のしもべへと、変容していくことができる。私たちの持てる全てを尽くして神を愛し、神にあって他者を愛する、これこそが神の国 における政治であり、神の代理人としてこの世を治めるための方法なのである。つまり、神が、ご自身の新しく造られた民と共に、全てのことをもう一度やり直 すことを選択されたのである。一番重要なことは、イエスこそ真の王であり、真のメシアであり、真に神のかたちに造られた方であり、真の主なる方であった が、神はイエスに従う者たちに、当初アダムとエバにお与えになった役割と同じ役割をお与えになったのである。

 他 者を無理やりに、強制的に愛するのは、それは愛ではないだろう。それを愛と呼ぶのは問題だろう。神を愛さないと、神を愛さないと、神を愛さないとという形 で愛するのは、もはや愛ではないだろう。王(メシア=キリスト)である、イエスと共に治めるというとおこがましいが、イエスと共にその責任を与えていると いわれているがゆえに、我々の両県において愛するような気がするなぁ。

 現在人間は、不完全な神のエイコン(姿、なり、 形)として、不完全な世を、不完全な方法で治めている。しかし将来、完全なエイコンが戻ってくる。そして完全なエイコンでもあるナザレのイエスはご自身の エイコンたちを助け、イエスが神殿となり、永遠の都となり、平安と愛と喜びと聖さとで満たされるからなのではないか。そして、人間は神の代理として、イエ スの方法で治めるのだな、これが。それも、

永遠に。


わ しらはもともと、神のエイコンだし、神のエイコンに永遠になる、というのが、福音じゃね?永遠のいのちを得るために、信じないといけないとか、滅びるとい けないから信じないといけない、とか、倫理的に清く正しく生きないといけないとか、毎日聖書読まないといけないとか、毎週教会に行かないといけないとか、 ひょっとしたら、そんなことじゃないんじゃね?イエスやペテロやパウロが言った福音って、そんな事をメインで言ってんじゃないんじゃね?ということがマクナイト先生のご主張である。

 あ、エイコンっちうのは、最近のコンピュータ語でいう、マウスでクリックするあれですよ、あれ。

 icon(アイコン)なんですな。念のため申し添えると。


 じゃ、どうすればいいのか?ってことについて、マクナイト先生がどう言っているか、に関しては、また次回。

Originally Posted on 2013 Mar 13 by ミーちゃんはーちゃん

2 件のコメント:

  1. 面白そうなトピックだけど、全部読みきらないと、何を言っているかわからない文章、つまり小見出しなしの長い文章は、読むのつらいっす。

    ワンダラーさんからのコメント 管理人による代理投稿

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  2. すいませんねぇ。来月中には書店に並ぶと思います。それでは、ちゃんと小見出しがついておりますので、しばらくご勘弁を。

    ミーはーちゃんによるコメント 管理人による代理投稿

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