少し間が空いてしまいました。タカ牧師です。
今日は「キング・ジーザス・ゴスペル」のキーワードの一つ「救いの文化」について。
マ クナイト教授がこの本で言わんとしているのは、簡単に言うと(北米の)福音派クリスチャンはいつの間にか「原初の福音」から離れ、旧約聖書も含めた聖書全 体から提示される「イエス・キリストの福音」の代わりに、その福音の結果である「(個人的)救い」をゴスペルとして提示するようになった、だから私たちは 本来の聖書自体が提示している福音に戻らなければならない、と言うことです。
マクナイト教授はそのように「救い(の計画と提示)」を「福音」そのものと混同したまま理解して来たクリスチャンたちの文化を「救いの文化」と呼ぶのです。
この漫画で「救いの文化」を説明したいと思います。
教会の屋根に上って説教をしているおじさんがいますね。「イエスを信じない者は裁かれます。」って言っています。
「イエスを信じるなら、罪が赦され、天国に行けるけれど、信じないなら地獄だぞー」っていう感じです。
こうして「イエスを信じる決断」を迫るのが「伝道」だと、つまりちょっと怖い面も見せながら人々を「救いの道」に導くのが「伝道」だと、マクナイト教授は若い頃先輩に連れられて家々を回って「伝道」したことを、本のイントロ「1971」で回想しています。
タカ牧師も若い頃「罪人のままだと地獄行き、天国には行けないんだ」と悟って「イエス・キリストを個人的罪の救い主として受け入れ」救われました。
でもこういうイエス・キリストの受け入れ方、つまり個人が「罪と地獄」から救われる道を提示するのがゴスペルだとされてきたのが、「救いの文化」による理解の仕方だったのです。
「救いの文化」ではイエス・キリストの「キリスト」は「罪と地獄からの救い主」です。
でも漫画を見てください。
この建物は土台である旧約聖書にたった一本の柱で乗っかって支えられていますが、「救いの方法」と書かれた柱は傾き、建物は不安定です。
そして旧約聖書の土台からはるかに離れ浮いてしまっています。
皆さんマタイの福音書の冒頭には何が書かれているか知っていますか。
そうですあの人の名前がカタカナでごちゃごちゃ書かれた系図です。
でも系図は言ってみればイエス・キリストというお方が「アブラハムの子孫、ダビデの子孫であること、つまり旧約聖書のストーリー、イスラエル民族のストーリー、を成就するお方、「王なるメシヤ」であることを告げているのです。
「救いの文化」ではこのストーリーが殆んど抜け落ちてしまっているのです。
「救いの文化」は、イスラエルの歴史とストーリーが背景に隠れてしまったまま、「罪と地獄からの救い主」としてだけ提示してきたことにならないでしょうか。
建物の中にいる人が窓の外を眺めながら言っています。
「あんなに遠くにイエスが見える」
そう「救いの文化」では「キリスト」はいつの間にか旧約聖書のストーリーから切り離され、歴史上の人物である「ナザレのイエス」から切り離され、殆んど非歴史的な、抽象化された存在になってしまっているようなのです。
マクナイト教授が主張しているのは、この建物の比喩を借りて言えば、「救い」を提示する伝道は、もう一度聖書全体のストーリーと歴史に直接基礎を置くものとならなければ、と言うことだと思います。
(※漫画はミーちゃんはーちゃんさんが描いてくれました。ご協力感謝。)
Originally Posted at 2012 Mar 07 by タカ牧師
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