2013年6月25日火曜日

「信仰義認」と「福音」

 このブログの最初に広告が出てくるようになったので、ちょっと軽く記事を。

前回の小嶋先生の記事で、

「信仰義認」を福音そのものであるかのように受け取る見方がありますが、少なくとも使徒たちの福音がもたらす「救い」の表現の仕方はそのようには限定されていません。

と いうことを指摘してくださいましたが、「信仰義認(イエスをキリストとする個人の信仰によって、信仰者が正しいもの、神の子供であると、神から認めてもら うこと)」は、「救い」の根底としてキリスト教徒にとって、大事なものなのですが、イエスが語った「福音」の方が、はるかに広い概念で、「信仰義認」「救 い」を受けた人が、そもそも、神(メシアあるいはキリスト)の王国の国民となり、地上で神の国民が生きることで、神に対して栄光を帰すことができる、とい う概念を含むのが「福音」なのではないか、というのがマクナイト先生のご指摘、だと思うのですね。

 ただ、このことを受け入れるために は、聖書が持つ世界観というものをまず全体として受け入れる必要があり、信仰をもったばかりの人(あるいは、信仰をもって相当時間的に経過した人でも) は、この世界観全体を理解することができにくい、という側面から、信仰義認を強調して語る傾向があり(語ってきた傾向が、筆者にはあり)、それが「『信仰 義認』=『福音』」という誤解を人々(キリスト者を含めて)がするように、仕向けてしまっているのではないか、と思うんですね。

 イスラ エル人にとって、あるいは、古代地中海人にとって、王国とは、帝国とは違い、都市国家という言葉に代表されるように、非常に狭い空間的領域で、王と国民と が共に住む、という概念があるのではないか、と思うのです。日本では、王とかの権威者を遠ざけたい(なぜかというと、童話の中に出てくる王様は大抵うっと うしい人たちだったりするし、天皇様のように神格化された存在の方なので)という気持ちが強いのですが、どうも古代地中海世界では、王国というのは、日本 人が想像する以上に、王と国民との距離が近いものだったようです。

 そんな近しい関係の中で、共に神である王と暮らす世界が、キング・ ジーザス・ゴスペル、即ち、イエスが王である国の福音、だったりする、というのがマクナイト先生のご主張なのです。それが今の教会では、ややその部分の強 調が薄くなっていませんか、ということがこのキング・ジーザス・ゴスペルのご主張だと思います。

 
Originally Posted on 2012 Oct 03 by ミーちゃんはーちゃん

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