2013年6月25日火曜日

現代の社会における福音の宣言

 はい、みなさん、いらっしゃいませ。

このブログの管理者でもある、ミーはーちゃんでございます。

 ここのところ、このブログがおさぼりになっているので、最後の辺の文章をご紹介しようかと。

 今日は、9章の中で展開されるマクナイト先生のご意見をちょっこしご紹介。(スニークプレビュー)なんか、聞くところによると、日本で、この本の日本語変換された翻訳本が出るらしいですよ。作業がほぼ終わりましたらしいです。

  現代の社会の中での福音宣教(福音を宣言すること)について、聴衆の背景に合わせてクリエイティブに語り口を調整する必要があるのは、パウロやペテロの時 代でもそうだったが、今日でも同じではないだろうか。フレッシュな御霊の風が使徒たちに与えられていな大胆さが、私たちにももう少し必要なのかもしれな い、とマクナイト先生はご主張しておられる。

 マクナイト先生の主張をざーっとまとめると以下のような感じ、こんな感じでしょうかね。たぶん。
 
 使徒たちは、福音は、イスラエルの物語という枠組みを持つ、としゃべっていた。つまり、イスラエルの物語を完成させるものとしてイエスを語ったのである。

  そこで、パウロが同福音を語っているかを第1コリント15章から論考しておられ、この部分に語られたことは、福音書の中の福音であり、イエスご自身の福音 であり、ペテロの福音であり、また、パウロの福音でもあるのであるとしており、それこそが唯一語るべき福音であはないか。

 第1コリントの使徒たちの福音の宣言と現代の伝道の比較を以下の6つのポイントにまとめられるだろう。

ポイント①
 使徒行伝での使徒たちの福音の宣言は、聴衆からの応答を促す大胆な宣言であったのに対し、今日多くの教会で聞かれる伝道の大半は、小賢しい説得になってしまっている。

ポイント②
 福音の原点は救いの物語や贖いの物語ではなく、旧約聖書に示されたイスラエルの物語によって突き動かされていること、現代の福音主義者が語るような贖罪の神学らしきものには、ほとんど触れられていない。
 第1コリント15章では、神の怒りのなだめ、罪、自我、社会制度やサタンの拘束から自由にされることもまったく触れられていない。

ポイント③
 使徒行伝によれば、使徒たちは伝道するときに神の御怒りに焦点を置いていないし、地獄に行かずに済む、という形でイエスの救いの物語を語ってもいない。ただし、最後の審判は初期のキリスト者の福音伝道の働きには、関連していることは確か。

ポイント④
 使徒たちが、福音で解決しようとしていた「問題」は、罪と、神の力の不在と、新しい創造の必要ではないか?それを、これらのテーマを単なる個人の永遠の命があるかないかといったような個人主義に縮小してしまうなら、それはまつがい、ではないか?
  何が罪かというと、アダムとエバは自分たちを神の役割にまで高めたことではないか。私たちが神の国における、神の権威を不当にも奪取した簒奪(さんだつ) 者であるうことではないか。つまり、本来の神から与えられた神と共に生きる姿(アイコン)を乗り越えて神になろうとした。それが罪であろう。
 しかし、メシア(油注がれた者)としての王としてのイエスの働きは、本来神の民である私たちを、もう一度その神の民としての働き、王なる姿、すなわち神から与えられた神と共に生きる姿(アイコン)としての役割を回復するように任命しておられるのである。

ポイント⑤
  初代のキリスト教徒は、政治的手段によらず神を信じることで、皇帝崇拝がなされていたローマ帝国を転覆させるに近いことを福音に込めていたのではないか、 キリスト者が福音(イウワンゲリオン)を公の場で言い始めたのは、スタントンによれば、偶像崇拝でもある皇帝崇拝の勅令が出たころで、それに対抗するため ではないか、ということに着目したほうがいいのではないか。

ポイント⑥
  使徒たちの伝道は、イエスの物語を語ることでなされたのだが、現代においては、福音を語ったり伝道したりというと、人がどうすれば個人的に救われるか(永 遠の命を持てるのか)という形に短絡化した物語を語る傾向にある。つまり、唯一、罪人の心だけになっていないだろうか、そして、人に自分は罪人だと認めさ せ、イエス・キリストを救い主として受け入れさせ、罪の問題を解決することに短絡化してないだろうか。
 たしかに、使徒的福音は罪の赦しも約束したが、イエスについての(救いの)物語を語ることによってのみ、その罪の許しを語ったのであって、現代の伝道というところでは、罪の許しを主に語り、イエスについての物語を十分に語っていない、主客逆転が起きているだろう。

 現代で広く語られてる福音にはイエスがあまり含まれていない。それは、「イエスは福音を宣べ伝えたのか?」という、今日多くの人が問うている疑問からも明らかではないかな?次章最終章では、これに対する対応が触れられる予定らしい。

 ということだそうで。

  塩野七生さんをはじめ、「イエスは好きだが教会嫌い」という人が出てくる背景には、現代の教会が、箸の上げ下ろしや生活の隅々までくちばしを入れてくるよ うな鬱陶しさが嫌いなのであって、イエスは本当にそんなことをいったのかい、ということもあるのだろうなぁ、と思うた。

 ということで、次回、最終章へと続く。チャンネルはそのまま、次週を待て。 


Originally Posted on 2013 Feb 05 by ミーちゃんはーちゃん

2 件のコメント:

  1. 福音は、much more than a system to get "sinners" saved なんですね!

    はちこさんからのコメント 管理人による代理投稿

    返信削除
  2. 御意。

    マー、うちのキリスト者集団なんかいつの間にか、すごいシステムを作り上げてましたから。orz

    ミーはーちゃんからの投稿 管理人による代理投稿

    返信削除