2013年6月25日火曜日

スコットさんてどんな人⑥ インタヴュー(完)

タカ牧師です。

しばらく更新が滞っている間に「福音の発見」は予定通り発売されました。パチパチパチ。

では早速インタヴューの残りです。

さてマクナイト教授、これまでの質問で読者の方々も幾らかマクナイト教授と日本との関係について知ることができ、「福音の再発見」をより身近に感じられるようになったことと思います。
ではここで思い切って本の内容について、私(タカ牧師)が少々案じていることについてお聞きしたいと思います。
おや、いよいよインタヴューの核心部分かな。どうぞ何でも聞いてください。できるだけお答えしますよ。
マクナイト教授は本の中で、福音派と呼ばれる人たちは実際には「救い派」である、と指摘していますよね。福音派の人たちが提示する「福音」は、実際には新約聖書の言う福音ではなく、むしろ「救い(の計画)」なんだと言うご指摘です。
そ うだね、僕がこの本で主張しているのは、「“救いの”福音」とは人々が罪を認め、救いの決心に至らせるために、「救いについての教理」の諸要素を、論理を 整え順序よく配置したものであるのに、それを新約聖書が言う意味での福音だと(間違って)思い込んでいる、と言うことなんだ。
そ うですよね。だとすると私たち日本の福音派と言われるキリスト者たちも、基本的にはそのような「“救いの”福音」を聞いて「救われた」として来たわけです から、マクナイト教授の本を読むと「いや、それは聖書が言う意味での福音ではない。」と言うことになり、読者たちは「私は福音を間違って聞いていたのだろ うか。すると私はもしかしたらちゃんと救われていないのではなかろうか。」と戸惑いや動揺を覚えるのではないか、と言うことなんです。
マクナイト教授はそのことについてどう思われますか。

一つ大事なことを先ず確認しておこう。私は「“救いの”福音」の教理的な部分、その中核的部分については正しいと思っている。
しかしもし福音はこれだけだと限定するならば、それは新約聖書の福音の見方から外れてしまう、ということなんだ。
と言うことは「“救いの”福音」を聞いて「救われた」キリスト者は自分の救いを疑う必要はないと言うことでしょうか。問題はそのような「救いの確信」を如何に堅固に聖書的基盤に据え付けるか、と言うことでしょうか。
そうだね。だから私は日本の読者に望むのは、ちょうど使徒の働きに出てくるべレア人(注:使徒の働き17章11節)のように、「一体聖書は何と言っているか」と聖書自体に直接問いを向けて欲しいんだ。
マクナイトは聖書では福音をこうだと言っているが、果たしてその通りかどうか一つ聖書に当たって直に調べてみよう・・・とね。
「福音の再発見」を読んで戸惑いを覚えたり、疑問を感じたりしたら、それで終わりにしないで聖書に当たってマクナイト教授の書いていることがその通りかどうか私たち自身が調べてみなくてはならない、と言うことですね。
そ の通りだね。その時こう言う順番で調べて行って欲しい。先ずコリント第一の手紙の15章。それから使徒の働きに出てくる説教。それから福音書自体が福音な のかどうかを問うてみて欲しい。そしてテモテへの手紙第二の2章8節を読んで、そこに言われていることが福音かどうか問うて欲しい。
そうですか。やはりべレアの人たちのように熱心に聖書を調べることが大事なんですね。
そうだよ。だから日本のキリスト者たちが私の本を読み、さらに新約聖書へと向かっていただけたら、それで私の役割は果たせたことになる。
マクナイト教授、今回はインタヴューのために時間を取ってくださりありがとうございました。日本の読者に代わって御礼申し上げます。

(※以上でインタヴュー記事は終了です。)


Originally Posted on 2013 May 19 by タカ牧師

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