2013年6月25日火曜日

最終章 福音の文化に生きる(2)

最終章のスニークプレビューの続きでおじゃる。
----------------------------------

 物語の民になる(
Big Pictureの登場人物として生きる)

 まず、キリスト者は「神の物語の民」とならねばならないだろう。福音について述べた後、何人かが私のところに来て、「ありがとうございました。先生のお話を聞いて、私は聖書を最初から最後まで読もうと決意しまし た。まだ一度も全部読んだことがなかったのです」というのは結構ある反応なのではないか。福音の文化の民になるためには、聖書の民になるところから始めなければならないだろう。しかし、ただ知識とし て聖書を知るのでなく、自分たちを形作る物語として聖書を知ることが重要なのではなかろうか。


イエスの物語の民になる(イエスの弟子として生きる)
  私たち は「イエスの物語」の中にどっぷり浸かる必要がある。私たちはその「イエスによって完結した物語の民」になる必要があるのだ。イエスの物語の民になるに は、たった一つの方法だけであろう。四福音書を読み込み、頭も心もその中にどっぷり浸かり、思い巡らし、かみしめ、じっくりと考えることで、イエスの物語 を自分と一体化させるのではないだろうか。

 このために、教会歴についても う一度考え、それに従うことの知恵を再評価すべきだと思うのだ。クリスマスと復活祭の意味を考え、それをもとにキリストと共に歩むという意味を考えることはじゅうようではなかろうか。

教会の物語の民になる
 使徒たちの書いたものが、イスラエルの物語とイエスの物語をいかに次世代に、また異なる文化に伝えたのか、そして当時の世代がいかに私たちの世代にまでつながっていったのかを見る必要があるのではないだろうか。聖書に対する「イエスのみ」のアプローチはちょっと問題だと思うのだね。福音とはイスラエルの物語がイエスの物語によって完結するものであるのだけれど、その福音は単なるイエスの物語ではないのではないか。それ以上のものである。イエスは、自分の物語は教会の物語として継続するものであることを、明らかに弟子たちに語っていた。私たちは、教会の中で現在も続くイエスの物語によって、私たちの物語を形作っていく責任を、イエスに対して負っているように思う。

  しかし、イエスがこの地上に聖霊を送り、イエスの共同体を力づけ、高め、導いてくれるようになったその日から、神がこの共同体の中でなさっておられること を、無視する権利は私たちにはないのではないか。そして、新約聖書の使徒たちの書き記したものを読むという新たな決意から始まるんじゃないだろうか。

私たちは何を信じているのだろうか
  私たちの信条(私たちが何を信じているか)をも知る必要がある。先に述べたように、信条と聞くと落ち着かなくなる人たちは多い。しかし、教会の知恵は信条 の価値と信仰の告白のうちにある。そこで、ネットで使徒信条やニケア信条、改革派信仰告白集や、ローザンヌ誓約やマニラ宣言のような様々の信条を読んでみ るとよいだろう。教会で信条と呼ばれるものを斉唱する人たちの中には、ろくに信じているわけでもない人もいるだろう。しかし、福音の文化を形作る者たちに 加わりたいと願うなら、長い年月の間、福音が教会に何をなしてきたのかを知る責任が、あなたにもあるのではないか。

変化に流されないために
 キリスト者は、福音の物語を過小評価し、また作り替えようとするような様々な個人主義、ニューエイジ思想や商業主義、消費主義といったこの世の物語に、対抗する必要がある。現代に生きる人間には、表面的な世界観に根ざした無数の偽りの物語が差し出されている。偽のものがたりは、福音の物語を書き換え、露骨にそれを破壊しようとする。福音の文化は、福音の物語を真実の物語として宣言することによって、それらの物語に抵抗可能だと思う。

 福音の文化を建て上げるために私たちにできることは、サクラメントの重視であり、洗礼の強調することであり、聖餐の強調ではないだろうか。

  インターネットやメディアで毎日洪水のように押し寄せるこの世の文化の物語に対抗する物語として、洗礼と聖餐を強調するならば、福音の文化を建て上げるこ とができるのではないか。洗礼と聖餐という行為の中に、イエスの救いの物語において完結したイスラエルの物語が体現されるかではないか。

神の物語を自分のものにする(Embrace the Story) 最後に、福音の物語によって救われ、変え られるために、私たちはこの物語をそのまま受け入れる必要がある。マクナイトは、この本を、誰が正しくて誰が間違っているのかを決めるため の神学的思索の書としては書いていない。正しさを定めるためではなく、キリストご自身に似た者へと全人的に変えられるために、使徒的福音を見極め、その福 音を自分のものにしようという彼の願いが書かれたものだそうだ。福音の文化は、まず私たち自身が完全に変えられてからでないと始まらないのではないか なぁ、と書かれていた。

 福音とは、イエスの救いの物語の中において完成されるイスラエルの物語であり、その物語は、この世において神の 民の中で働いておられる神の業についての物語であろう。福音の文化を生み出すために、この福音を自分のものとして受け止めるとは、聖書の物語を神の民につ いての物語として受け止めることなのではないか。教会を、その醜い部分も含めてすべて、神の民として受け入れられているのではないか。福音の文化は教会の 文化であろう。そしてそれは、人々が共に造り変えられていく教会の文化だろう。先に述べたような問題に、共に取り組むことで福音の文化へと変えられてい く、教会の文化なのだろう。

祈りについて
  福音の物語を自分のものとして受け入れるとは、神に聴き、神と語るという、神とのコミュニケーションの人生に召されることでもあるだろう。これを祈りと言 う。祈りには主に二つのスタイルがあるのではないか。一つは、私たちの願い、希望、必要など心の奥からわき上がる自発的な祈りといえよう。もう一つは、詩 篇など、聖書の祈りを祈ることである。 祈りといえば、イエスが私たちに与えてくださった「主の祈り」を抜きにして語ることはできないだろう。この祈りは卓越した福音の祈りである。なぜならこれ は、イエスの物語によって成就したイスラエルの物語によって形作られているからだ。この祈りは、福音の真理について神と語り合う一つの方法だろう。

神と共に生き、人々に仕える民として

 福音を自分のものとして受け止めるとは、愛と思いやりの心をもって他者に仕えるこ とによって、福音の文化を作り出すことでもあるだろう。神を愛し、ま た他者を愛するという、イエスの信条に見られるイエスの言葉に目を向けるにしても、わたしに従いなさいというイエスの招きの言葉に目を向けるにしても、あ るいは御霊の実を結び、御霊の賜物をいただくために神の御霊をあなたがたのうちに解き放ちなさいという使徒パウロの言葉に目を向けるにしても、福音の物語 は私たちを一人にはしないのではないかな。私たちの神は、遣わしたもう神でもある。したがって、私たちは、遣わされた民ではないだろうか。私たちの神は他 者に向かう神であるように、 私たちもまた、他者に向かう存在なのだろう。福音は私たちを宣教へと押し出す。神を愛し、自分を愛し、他者を愛し、世界を愛するという、包括的な宣教へと 私たちを押し出すことになるのではないかなぁ。

 イエスは生きて、死んで、葬られ、死からよみがえり、神の右の座に挙げられ、まばゆいば かりの栄光に満ち、御国がいつかやって来るというメッセージを轟かせているのではないかな。そのイエスによって体現された、イスラエルの救いの物語、それ が私たちの福音なのだと考える。
----------------------------------
ということだそうでおじゃる。

  現在、初稿の校正が終わり、修正点を校正中。

 来月中には、「福音の発見」というタイトルで、キリスト新聞社さんから刊行予定。

 チャンネルは、そのまま、次の投稿を待て。 

Originally Posted on 2013 Mar 28 by ミーちゃんはーちゃん

0 件のコメント:

コメントを投稿