まずもって、「聖書」が面白い、と思ったことは、あんまりなかった。無味乾燥なカタカナの名前が連続で、言い方もあちこちで違って、似たような表現がいっぱいあるのに、「あー、もぉー、うっとうしい。もっとまとめてくだされー」と思ってしまったことが何度あったことか。マタイの福音書を脱出できなかったことが何度あったことか(途中で挫折した)。
迷路みたいで、あちこちでデジャブの世界というのか、どこになにがあるんだか、という感じでした。「だいたい、イエス・キリストかキリスト・イエスか、はっきりしてくだされ」と思ってしまったこともある。これは、タカ牧師が書いているお話を見てみれば、お分かりいただけると思いますけど。
さらに、「あれをしたら駄目、これをしたら駄目、髪の毛は長くないと駄目、スカート丈は長くないと駄目、女の子はジーンズはいちゃ駄目、パーマは駄目、髪の毛の色染めるのは駄目」とか教会の人が言っていた時期がある。「うーん、中学の体育教官室か、生徒指導室か、 ここは?」と思う人がいても仕方がないかもしれない。だいたい、イエスの時代に、パーマネントはありません。(天然パーマの人は別ね。)イエスの時代にヘ アダイはありません。大体、ジーンズの語源は諸説あってよく分からないものの、その語源のひとつとも考えられるジェノバ人は、地中海交易では活躍していま せん。そんなこと、「イエスがいったんかい?」「聖書に書いてあるんかい?」といっても、聖書を隅から隅まで読む気にもなれません。
今 は、ありがたいことに、聖書のことばが書かれているサイトや、語句検索できるサイトがあるし、Google先生にお願いすれば、たいてい何とかしてくれ る。「ヘヤダイ」とか「パーマ」とか、「ジーンズ」とか「スカート」とかで聖書の語句検索が携帯電話からできるので、どこにもないことは、すぐわかるんで すけどね。「何で、この人たちは、こんなことで盛り上がってんの?」とか、「どっかおかしいんじゃね?」というのが、あるので、そもそも、そんな話を聞く 気になれなかったのも事実。ある教会のおじさんがお話されているのをお聞きしながら、「イエス様は、いや、パウロ様は、風紀委員長様か?」と思ったことがある。正直。
この間、ミーハーちゃんが「The Englishman Who Went Up a Hill But Came Down a Mountain(日本名 ウェールズの山)」 という長ったらしいタイトルの映画を見ていたら、教会員の村人に大声で不倫疑惑のいやみを言いまくる牧師先生(黒服の詰襟着ているおじさん)が出てきてい たが(Morgan the Goatと呼ばれる好色な村の居酒屋の主人への当てこすりではあるが・・・そういえば、あの役者さん、Law and Order SVUでも、好色な判事役で出ていた。ジーン・ハックマンをかなりいやらしくした感じの俳優さん)、あれほどではないものの、結構、当てこす りみたいな話をする牧師さんもいるし。The Englishman Who Went Up a Hill But Came Down a Mountainの牧師先生の教会での演説はすごかった。
その教会の中の演説シーンは見当たらんかったが、この映像でも、雰囲気がわかるかな。
http://www.youtube.com/watch?v=pC76bYmEONY
ちなみに、Morgan the Goatと呼ばれているのが、ちじれっけで赤毛、普段教会に行かない宿屋兼居酒屋の主人のおじさん。
この強烈な牧師さん(学生服みたいな服を着ているので、余計に厨二病患者にも見えるのだけれども)ではないが、フォトンベルトだの、ユダヤの陰謀だの、フ リーメーソンの陰謀だのを言い出す牧師先生のような人もいるらしいし。ほとんど、「厨二病じゃね?」といいたい気持ちになってしまう。
うーん、こんな環境で、中身のあるクリスチャンになれ、といわれてもねぇ、ウェールズの山に出てくるあんな当てこすりをするような牧師先生見たいにはなりたかないよねぇ、と思っていたのもまた事実。なので、中身のないクリスチャン生活になっていたわけなのだね。
ちなみに、タカ牧師とは、ミーハーちゃんはリアルでお会いしたことがあるのだけれども、厨二病の牧師もどきのような方でもなく、ウェールズの山の強烈な牧 師(黒服の詰襟着ているおじさん)みたいな牧師先生ではぜんぜんなかったのだなぁ。もっと、春のそよ風、といった感じのほんわりした方でした。
とはいえ、ミーはーちゃんも教会でキリスト(旧約聖書で約束された遣わされた者・メシア)である「ナザレのイエス」とであったのも事実だしね。ま、そんな こんなで、たらたらと教会生活を送っているうちに、いろんな本とも出合い、いろんな方の話(雨宮 慧先生かわいい。晴佐久神父、おもしろい。マクナイト先 生。ゆでタマゴみたい。)を聞き、そして、自分自身で聖書を読むうちに、たぶん、聖書がいっていることって、こうかなぁ、とわかるようになってきて、そう なると、これまた、あの迷路みたいな聖書に隠された隠し部屋とか、ボスキャラとか、「落とし穴」とか、ラスボスみたいなものが見えてきて、現在は、『落と し穴』とかラスボスと格闘中。だから、今、「中身を充実中」というか「充電中」、といったところかもしれない。
と思っていると、大変面白い、記事を発見したので、ちーと引用したいのだな。これが。工藤先生という精神科のお医者さんらしいのだが、こんなことを書いておられた。できれば、全文を読んでほしい。
この下に一部を引用するので、読んでもらえたらなぁ、と思うのだな。(このあたりの表現が、ミーハーちゃんが厨二病患者であること証拠でもある。お許しくだされ、お代官様)
先のレポートを書いた青年は、小学校から不登校となり、大検を経て大学に進学するも、慢性疲労症候群にかかり、日常生活にも不自由を強いられたため、医療にも失望し、教会に助けを求めて集うのは必然の成り行きであった。
ところが残念なことに、教会で語られていた教えは、「心に平安がないのは信仰が足りないから」と、祈りの不足を責められるような内容であったという。それは、連載の初回に述べたP・トゥルニエの指摘、“福音”の名を借りた道徳主義そのものであった。つまり、オドオド・ビクビクの律法主義であり、人を赦し、解放し、自由にする神ではなく、人を罰し、追いつめる神であった。
この青年が、教会は本当の福音、今ある自分をそのまま認め受け入れる福音を語ってほしいと叫ぶその声は、切実である。今日の日本の教会で、本当の福音は語られているのだろうか。救いを求めて行った教会で、かえって失望の中に教会を去った人々も少なくないのではないだろうか。
◆断想
聖書も、その読み方を間違えると致命的なものとなる。彼を助けた断想とは、次のような内容ものである。
「何を措いても先ずしなくてはならないこと、それは、私はこれでよいのだという自己肯定です。それは、自己満足ということでも、無反省な自己追及というこ とでもありません。私たちを縛っているさまざまな社会的基準や道徳的価値から、自分自身の人生を解放して、大切にするということです。生きる上での一応の 目途にすぎない人間の作った基準や価値に縛られ、私たちは折角それぞれに用意されている自分の世界が、すっかり見えなくなっています。それを見出し、それ を楽しむ、その為に先ず自分を肯定すべきなのです」(一三六頁)
聖書を簡単にわかったなどと思わず、手間暇かけて自らを点検し、自らの立っているところを誠実かつ正直に問い続ける永遠の求道者の姿こそ、キリスト者に求められる資質に違いない。
以上、いのちのことば(3月号) 「福音は届いていますか」工藤信夫 連載(キリスト教良書を読む)からの引用 (赤字部と、太字部はミーハーちゃんによる)。
うーん、ということは、充電期間がいつまでも終わらんじゃないか?パウロがそんなことを言っているって。そうでーす。パウロ君も言っていたんだった。
「わたしは、既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません。何とかして捕らえようと努めているのです。」
新共同訳ピリピ3章12節。
はい、もうちょっと充電します。ブブブブブ・・・・・
Originally posted at 2012 Mar 25 by ミーちゃんはーちゃん
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