2013年7月26日金曜日

発売後の反応⑦

タカ牧師です。

またまた一週間位開いてしまいました。

さすがに「福音の再発見」も重刷になったとは言え、その後の反応は最初の頃よりは目立たなくなってきました。

しかし全然ないわけではなく、(販元のキリスト新聞担当者から聞いたところによりますと)その後も全国各書店で順調に売れているようですので、まだ待っていれば「読者の反応」は出てくることと期待します。

今回紹介するのは「福音の再発見」に付けられたサブタイトル『なぜ“救われた”人たちが教会を去ってしまうのか』に関心を持たれた方の反応です。

①通称OZさんのWho Am Iブログから
人の魂の救いにとにかくこだわり、彼は既に救われているか、まだ救われていないかに第一の関心を寄せながら伝道、弟子訓練しているような俺みたいなへんてこりんな奴にはこの本は非常に非常にいい意味で一石を投じます。牧師先生方に読んでもらって感想を聞きたい本第一候補。お勧めです!!
と言うことですので、「牧師先生方」どうぞ読んでおられない方がおりましたら是非どうぞ。

また信徒の方でお読みになった方で、ご自分の教会の牧師さんがこの本をお読みになっていないようでしたら、それとなく「『福音の再発見』読まれているみたいですね」、と誘い水を掛けていただければ幸いです。

ちなみにタカ牧師の教会グループでも先日牧師会がありましたが、(タカ牧師を除いて)集まった6人のうち4人が既に購入して読んだか、読書中か、購入しました。

②細野英朋さんの『福音の再発見』出版記念インストアートークイベント参加記
「なぜ"救われた"人たちが教会を去ってしまうのか」を私なりにとてもおおざっぱに書くと、このようになります。

キリスト教の「福音派」はいつしか、信徒を増やすことだけにフォーカスするようになりました。興味を惹くことで信徒を増やす動きは、興味が尽きた信徒をつなぎとめられないという結果を生み出しました。「な ぜ"救われた"人たちが教会を去ってしまうのか」、それは興味を惹く手法を追いかけ、「救い」を粉飾したことにあるのかもしれません。ちなみに本書では、 このことを「『救い』が『福音』を乗っ取った」と表現しており、宗教改革以降、だんだんと「救い」が「福音」を乗っ取ったのだと主張しています。
細野さんはこれに続けて「伝道と社会的責任」と言う大事なテーマについても考察していますので是非お読みください。

今日たまたま、Facebook上で、ある方が「福音の再発見」での聖書引用が「新改訳聖書第3版」であるのに、そのことが明記されていない、とコメントしているのに接しました。

これは最終校正にちょっと加わっていたタカ牧師としても残念なミスです。
読者の方々には大分後からになって申し訳ありませんが、この場を借りてお詫び申し上げます。

幸い第2刷の方では既に改められています。(このページの一番上の行にそのことが明記されております。)


と言うわけで、なお「福音の再発見」宜しかったらまだ知らない方にお勧めください。

ではまた「読者の反応」探してみます。

2013年7月19日金曜日

「福音の再発見」ファン感謝デー・東京編

タカ牧師です。

こまめに「読者の反応」を拾っておりましたら、拾ったブログ主が逆に本サイトを紹介してくださいました。

何しろキリスト教ブログとしては最大とも思える命と性の日記ブログです。

アクセス急上昇に乗じて広告させて頂きます。
(と言うのもイマイチPRの手応えが無く、イベントが成立するかどうか心配なのであります。)

※「福音の発見ファン感謝デー・神戸三宮編」の案内は・・・こちら
では「福音の発見」ファン感謝デー・東京編のご紹介をば・・・

と き: 2013年8月25日)午後2-4時(時間中出入り自由)
ところ: 木工房活水・ティールーム(7-8名)
     ※巣鴨聖泉キリスト教会隣接

アクセス(地図・経路)
こちらをクリック。
なにするの:タカ牧師のミニトーク
    「『福音の発見』で大事なのは『どこから始めるか』です。お茶飲み話その後はお茶を飲みながら自由にチャットチャット
     (福音の発見から話題が外れても気にしない気にしない。自由にトーク。)
参加費:一人500円(お茶とお菓子の用意があります) 
お問合せ:sugamo_seisen*yahoo.co.jp

    (*マークを半角の@に変換してください)
電 話:03-3946-8035(当日・直前は、携帯080-5180-8035)

     ※どちらもコジマが出ます。

 
※なお準備の関係もございますので、前日までに「出席します」と一声お名前とともにメールでお知らせいただけると誠に助かります。
(メールの場合、お名前の読み方をカナ表記でお願いします)
ご無理な方はお電話にて承ります。

福音の再発見ファン感謝デー・関西編(神戸三宮)

ミーちゃんはーちゃんでございます。

暑い日が続いておりますが、皆様 つつがなしや?

 さて、8月の暑いさなか(8月11日目前、彼岸の入り)でありますが、神戸の三宮で、「福音の発見」、ファン感謝デーを開催できることになりました。

 ファン感謝デーなのに料金を取るのは・・・(この辺、関西は渋いですから)ということもありますので、ファン感謝デー、ご参加無料大解放デー(と言ってもスペースの関係からいって、先着7名様限りになりそうですが)を開催いたしたく思います。
 
 日曜日の午後の出にくい時間ではありますが、開催いたしますので、エアコンの効いたお部屋で、冷たいものなどを食しながら(と言っても豪華なケーキ類などは出せませんが)、あーでもない、こーでもないと2時間ほどフリートークというかディスカッションをしていろいろご教示いただければ、と存じます。

 会場の関係で受け入れ人数に上限がございますので、事前にお申し込みの方を優先的にお受けしたいと思います。

開催会場および時間
1. 神戸三宮の集い
 とき:   2013年8月11日)午後2-4時(時間中出入り自由)
 ところ: 神戸市勤労会館 応接会議室 (10名)         
         スコット・マクナイト研究会 名義

       神戸市勤労会館はこちら
        (http://www.kobe-kinrou.jp/shisetsu/kinroukaikan/index.html
       ミント神戸の東、サンパルの南、中央区役所の隣(三ノ宮駅から徒歩5分)


 なにするの:

   ミニトーク::巣鴨聖泉キリスト教会のタカ牧師
      タイトル「福音の再発見」で大事なのは「どこから始めるか」です。

      ホスト  :ミーちゃんはーちゃん

   お茶飲み話
   その後はお茶を飲みながら自由にフリートーク
      (福音の発見関連のお茶飲み話)
    お茶と紙コップ類、簡単な冷菓をこちらで用意します。

 ※参加費   一応無料 + 自由献金(箱入れ形式)
 ※お問合せ kawamukaihajime*gmail.com 
           (*マークを半角の@に変えてください)
          TEL 090-1246-7027 (かわむかい)

ご参加希望の方はお早めに、メールでご連絡いただけると嬉しいかと。

ご無理な方はお電話で。

えっ、福音の再発見の原書がキンドルでただ!

スコット・マクナイト「福音の再発見」は原書では
The King Jesus Gospel

ですが、どう言うわけかAmazon.co.jpサイトで、この原書の「キンドル版」がただで手に入るようです。

リンクはこちら


情報を流してくださった小島牧師に感謝!

2013年7月15日月曜日

発売後の反応⑥

さてしばらく開いてしまいました、タカ牧師です。

ちょっとツイッターのTLから拾ってみました。

松田牧師はタカ牧師が、いきなり「高松でおいしいうどん屋さん紹介して」みたいなツイートをいきなり投げたのに、ご丁寧に地元のお店を紹介してくれた親切な方です。
本も良く買っておられるようです。

願わくは「福音の再発見」が松田牧師のお眼鏡に適うものとなると良いのですが。
松田牧師は日本キリスト改革派高松教会ですから、バプテスト出身、今メノナイト的な神学のスコット・マクナイトの立場にどれ位好感を寄せていただけるか、との心配も無きにしも非ず。


読者の反応と言う話とは少し変わりますが、Amazon.co.jp、ではもう中古品として出ていますね。
しかもお値段が、3,972円よりとあります。
さらに「コレクター商品」のカテゴリーでは、4,200円よりとあります。
どうなっているんでしょうね・・・。

そう言えば、教文館の(キリスト教書籍)「月間売り上げベスト20」では、5月に続いて、6月も「第1位」となっています。
読者の皆様の熱い御支持の賜物、と深く感謝するしだいであります。

さて既に一度ご紹介くださった、「命と性の日記」の水谷先生が再度、福音の再発見ーー黒船来航すれども開港せず、でその意義を評価してくださっています。
この書物を読んで、「福音派はおかしい」とか「福音派はダメ」とか(聖霊派も含めた広義の)福音派に属する者が、反応するのは、違うだろうということです。G先生のご指摘のように、この書物は福音理解について、私たちを真摯に聖書と歴史と文化に向き合わせると言う意味で、やはり黒船だと思うのです。ショッキングな方法で、自分の福音理解に安住する者に、目を覚まさせる書物なのは間違いありません。
「(日本での)発見者」としてそこをご理解いただければ、一つ役割を果たしたかな、と言う感じです。

またG先生も、スコット・マクナイト「福音の再発見」再考、と言う記事で再度本書を取り上げてくださり、評価とともにその問題点、殊に日本で(米国でも同様とは思いますが)、いかに「再発見」された福音をまさにゴスペルとして語るのか、と言うことを指摘しておられます。
私には本書におけるマクナイトの聖書に基づく適用部分を読んでも、今のところまだそれほど明らかではありません。つまり、私としては——牧師としての説教の務めは離れましたが——天地創造から新天新地に至る救いの物語の中にキリストにある全被造物の解放を見ながら、すべてを包む神様の恵みの風呂敷の結び目にリバイバルの伝統におけるキリストの血による個人の罪からの救いをおいて語る以外に、 まだ自分の福音伝道のメッセージを持ち得ません。
すなわち、私のうちにある伝道メッセージは——そして私の生き方は——今も高校生のときにアメリカ人宣教師から最初に聞いた古い福音派の「神ー罪ー救い」というアウトラインにあり、その「救い」の部分にキリストの甦りによる肉体の復活の希望と共同体における新しい人類の完成を含めて、この世におけるクリスチャンの生き方にも関わって「救い」をブロードに解釈して語る、今もそれが基本線です。要するに、私にとって福音は今も基本的には宗教改革の伝統に立つ「古い古い十字架教」(内村鑑三)なのです。
とのご指摘ですが、恐らくタカ牧師の見方では、マクナイトは再発見された福音の「文化」を問題にしていて、「簡略化された救済論」を「一回の伝道説教で回心を迫る」ようなイメージでは捉えていないように思うのです。

その点、タカ牧師が「大和郷にある教会」ブログで連載してきた「福音派のパラダイム・シフト」とマクナイトのアプローチは通底しているように思います。

さて今回の「読者の反応」は期せずして「牧師たちの反応」になってしまいました。
その点はあまり変えられないのですが、最後に晴佐久神父(ボット)のツイートで締めくくりましょう。




ではまた何かありましたらご紹介いたします。

ところで、8月11日(日)午後2-4時(神戸・三宮)、そして8月25日(日)午後2-4時(東京・巣鴨)の福音の再発見読者感謝デートークバック・セッション、皆さん是非いらしてくださいねー。
心よりお待ちしています。

2013年7月13日土曜日

福音の再発見のタイトルにしたわけ(2)

 前回に引き続き、このタイトルにしたわけをご説明したいと思います。


なぜ、福音の再発見というタイトルにしたか?
幻のタイトル案たち

 この本の企画段階では、お世話になった皆様方(Taka先生、訳者の中村様、キリスト新聞社の担当の方お二人、そしてミーちゃんはーちゃん)から、さまざまなタイトル案が出ました。一部をお示しすると、こんな感じです。

  • 福音ってなんだ?-教会文化の再構築に向けて
  • 「福音ってなんだ?-土台から見直す教会文化」
  • 「福音」を問い直す
  • それって「福音」?
  • ホントの『福音』ってなんだっけ?―ペテロやパウロが語りたかった『福音』―
  • 『福音』ってなんだっけ?―ペテロやパウロが語りたかった『福音』―
  • その「福音」理解、間違っていませんか?
  • 目からウロコの「福音」指南
  • 福音とは何か ーイエスと使徒たちの福音ー
  • イエスが教えた福音
  • イエスが伝えた福音
  • 福音ってなんだ?-土台から見直す教会文化
  • 福音ってなんだ?-教会文化の基礎工事
  • 『福音』の歩き方 ―ペテロやパウロの語った『福音』―
でこの中には、肝心の「福音の発見」という語が出てこない。(パクリ系のお茶らけ案は、そう、ミーちゃんはーちゃんです)

 そうなんです。それだけ、この本のタイトルには関係者一同悩みました。訳してくださった中村様、そしてミーちゃんはーちゃんに与えたインパクトを失わないようにするタイトルでありながら、本当にイエスが死を賭して語り、パウロやペテロが必死になって伝えようとした『福音』とは何か、福音の民として生きること、すなわち『福音』という生きる姿を示すようなタイトル、そして、人を小馬鹿にしたようでない(ウエメセでない)タイトルとは何か、と関係者一同で考えました。邦訳した時の読者は誰になるだろうか、ということを想定しながら。そして、座礁状態に何度もなりながら。

 そして、もう一度、ゾンダーバン社のThe King Jesus Gospel のプロモヴィデオ(これ↓)



を見たのです。(動画の中でしゃべってるオジサマが、著者のマクナイトさん)そこに、我々がRecoveryすべきものという表現がありました。Recoveryは、再生、回収、取戻し、採取、復旧、覚醒、修復、復元、戻ってくること、といった感じの語です。しかし、この動画の日本語字幕の原案をミーちゃんはーちゃんが走りタイプした時に、何の気なしに再発見と書いちゃったんですね。それをTaka牧師が見つけてくださった。拾ってくださった。

 多分、この原案を走りタイプしているときに、キリスト者は福音をどこかで絶対にちらっとでも見ているはずなのに、それに何らかの形でいろいろな事情で見失われてかけられているから、それを見つめなおし、取り戻したら、というくらいの感じで、再発見としたと思うのです。それがあっさりと採用されて、「再発見」が使われることが決まり、もともとのマクナイトが、「The King Jesus Gospel」と言っていることと、『福音』とは何か、ということを再検討することを迫る本でもあったので、「福音の再発見」となったのが、今年の2月末ごろ。もちろん、このタイトルが決まってから、以前に同名の本があったことにそれも指摘されて気づく愚かさ。ありきたりのタイトルの本というそしりは免れませんね。

 段ボールを破ったようなちょっと乱暴な表紙デザインも、本来持っていた福音が段ボール箱の中にしまいこまれているなら、箱の外側を破って取り出したら、っていう風にデザイナーの方が理解してくれたと思うんです。この辺、直接聞いてないんで、何とも言えないですが。

 上記映像の中盤辺りに引っ越しのため、箱詰めしている大学生風の若者がでてきますが、あの段ボール箱のなかにしまいこんだのが「福音」だとデザイナーの方はご理解いただいたのかもしれません。日本では、会社勤めや仕事を始めて会社や仕事場という現場に出場するうちに段ボールの箱に思い出とか、懐かしのおもちゃや本と一緒に「福音」をつめちゃうのかもしれませんが。

誰のための本か?
 『福音』に今すでに生きている人たちには、本来必要ない本のはずなんです。ミーちゃんはーちゃん個人としては、悩んでいる信徒さんに読んでほしい本なんです。特に経験がなく悩んでいる若いキリスト者の方に。

 お一人様クリスチャン、教会に生きながらも、悩み苦しんでいることを言えずに教会の片隅で息をひそめ隠棲するかのごとく生きているクリスチャン、自分はキリスト者としてふさわしくないと思っているクリスチャンたち、ローンレンジャーのように教会を離れ、一人で生きるしかないと思っている、いや思い込んでいるクリスチャンたちに読んでほしい本なんです。

 本来の生き生きとして、みずみずしい『福音』(福音の民として神とともに生きる生活)を味わってほしい、という思いでの「再発見」でもあるのです。

 従いまして、もう、『福音』を味わっている、『福音』を生きている方には、本来必要ない本なのだと思うのです。牧師先生は、『福音』に生きておられるはずだ、とミーちゃんはーちゃんは確信していたので、「この本を牧師が読むべきだ」ってG先生がお書きになられた時には、「じぇじぇじぇ」と正直驚きました。

 今でも、「イエスは好きだが教会は嫌い」って言われる自称元キリスト者、地図なく荒野や砂漠を歩いているかのようなキリスト者、苦しんでいるキリスト者、教会で砂をかんでいるような経験をしているキリスト者・・・・に、「戻るべきところは、イエスと聖書全体かもね?」ってことをきちんと示している本として、いいなぁ、と思ったのです。それをみんなでいろんな形で味わってもらったら、というのが今のミーちゃんはーちゃんにとっての『福音』です。

どうしろって言ってない本ですが
 ただ、この本には具体的方法論は書かれてない。どうしろとは言ってない本です。こうすればうまく行くってことは書いてない本です。水谷先生の最近の記事でいう、成功哲学や成功者としての教会になるための本ではありません。また、これが福音だ、ってこともあんまり言ってない。

 それはお一人お一人が考えること、ということで、マクナイトはわざと書いてないかもしれないのでは、と愚考いたしております。神とともに生きるという『福音』は、神とその人、その周辺の人々とで作り上げていくものであるがゆえに、安直にある方法(メソッド あるいは、水谷潔先生の記事でご指摘しておられるキャリアポルノ本、成功哲学というのか、成功の方法論のようなポルノグラフィー、あるいは偶像)にしないためにも、一人一人が探してね、という感じでその余白として残しているのかなぁ、と善意に解釈しております。マクナイト本人に聞いたわけでないので、確かではありませんが。

いろんな福音
 神の民として生きる人が100万人いれば、100万通りの『福音(神の民としての生き方とその結果)』があるはずだと思うのです。それを限られた方法で示してしまうことには、しょせん無理があるのだと思いますし、いちいち記載したのでは、紙幅は足らないと愚考します。

 この本の226ページの第2パラグラフにはこのことについて、以下のように書かれています。

「福音とは、イエスの救いの物語の中において完成されるイスラエルの物語であり、その物語は、この世において神の民の中で働いておられる神の業についての物語である」。福音の文化を生み出すために、この福音を自分のものとして受け止めるとは、聖書の物語を神の民についての物語として受け止めることなのである。教会を、その醜い部分も含めてすべて、神の民として受け入れるのである。福音の文化は教会の文化である。そしてそれは、人々が共に造り変えられていく教会の文化である。先に述べたような問題に、共に取り組むことで福音の文化へと変えられていく、教会の文化である。
 つまり、黙然と神の民として生きることも『福音』であり、『福音』を宣言することであり、『福音』を紡ぎだしていくことだと言うご主張だ、思うのです。その物語を紡ぎだし、宣言する側の人間あるいはキリスト者としての誤りや醜さを含めて。

息をしているだけでも福音かも
 それだけ、『福音』って手短に語れるものでなく、味わうものかも、実現しているもの、ということなのかもしれないと愚考します。誤解を恐れず言えば、「キリスト者として、神と共に息をしていること」、「キリスト者として病床でも息をしていること」、「さまざまな事情からとはいえ、教会にもいけないけれども、神を見つめようとするキリスト者としてこの地上で息をしていること」すら『福音』だとマクナイトが言っているように愚考・誤解・誤読してしまったのです。

 イエスが生きている、イエスが生きた、それを声を出して公言するか、説教するか、讃美歌を人々ともに歌うか、人にさまざまな方法で仕えるか、献身するか、痛む人、困っている人ともに生きるか、それぞれの方法は別として、それぞれの方法で、「イエスが生きていること、神が自分と共に生きていることを日々確認(再発見)できれば、それはそれでいいんじゃない?自分自身の『福音』をご自身で見つけてごらん?」という部分が再発見の意味だと愚考いたします。

 水谷先生は、先生の『福音』をすでにお持ちで、日々再発見しておられるのでは、と拝察いたしております。だからこそ、再発見がお分かりになりにくかったんだと思います。

 ただ、何人かのキリスト者とお話しするうちに、『福音』にいろんなものがかかっていて、迷っているような事例も見聞きいたしましたので、ミーちゃんはーちゃんは、そういう方に「あなたたちは持っているはずだし、どっかで見失ったのだったら、あるいは、段ボール箱に詰めちゃってどこ行ったかわかんなくなったら、それを探して、そしてそれを大事に神と共に生きてくださいね」、「一緒に毎日再発見しませうず」って言いたいだけなんですよ。


 できるだけ、一般信徒の方に分かることばで、ミーちゃんはーちゃんがこの本読みながら思った『再発見』『福音』について、お話しいたしましたつもりでございます。水谷先生、そして皆様のご期待に添えていると嬉しいのですが。

                ミーちゃんはーちゃんより

2013年7月12日金曜日

福音の再発見のタイトルにしたわけ(1)

ミーちゃんはーちゃんです。長くなるので、2回に分けようかと思います。ミーちゃんはーちゃんは一介の平信徒にすぎませんので、まだ、一般の方々のお気持ちに添える形でご説明しやすいかと思い、書いてみることにします。長い、くどい、というは承知しておりますが。

こころから御礼申し上げます
 水谷先生、「福音の発見」をブログ記事として、何度もお取り上げいただき、心から御礼申し上げます。

「福音派はおかしい」とか「福音派はダメ」とか(聖霊派も含めた広義の)福音派に属する者が、反応するのは、違うだろう
本邦訳書の出版企画側(CRISP)の意図を正確にご理解いただき、感謝申し上げます。

 ミーちゃんはーちゃんは福音派と呼ばれるところの片隅(ミーちゃんはーちゃんは福音派の外だ、と言われても甘んじて受けとめたく存じます。といいますのは、そもそも、キリスト教界の枠組みをほぼ無視する集団におりますので仕方ないとは存じております)におりますので、福音派の皆様がヲワコンとか、福音派の皆様がおかしい、その聖書理解に問題がある、あるいは、本書でふれられているパイパー先生のお考えがどうのこうのとか申し上げるつもりで本書の出版を企画したわけではございません。

本出版の企画意図
 本書の出版企画したCRISP(というよりはミーちゃんはーちゃんが一人でしておりますものですから、実態としてはミーちゃんはーちゃん)としての企画意図は、できるだけ多くの皆様が聖書の主張に立ち戻ってお考えいただけたら、ということでございます。

 どのようなキリスト教会様にあっても、どのキリスト者様でも、歴史的な経過の中で、あるいは人生の中で、様々なものが知らず知らずに付随してしまいます。そして、それが本来のものを本来のものとして見えなくなすることがございます。従いまして、我々が立ち戻るべきところ、つまり歴史の過程の中でさまざまなものに覆われてしまっているかもしれないものをちょっぴりだけ取り除き、再発見(Recover)したほうがよいところがあるとおもったからです。

 ところで、商船でも軍船でも、船は、長らく航海しますと、船底に牡蠣がらだの藤壺だのが付着いたします。すると、船体の運動能力(速力や旋回力など)が本来の設計基準(諸元)から次第に落ちてまいります。そこで、定期的にドック入りし、船底についた牡蠣がらだの藤壺などをこそげ落とし、船体を再塗装いたすため、造船所のドックでメンテナンスいたします。それと同じように、キリスト者が生き生きとした信仰を保つために、ときにドックインし、自分自身を見直す作業をしておく必要があるのではないか、と思うのです。何気なく生きていると、どうしても、この種の信仰に関するメガネというか、それを覆う膜のようなものが付随してしまう、と思うんですね。ミーちゃんはーちゃんの体験的黒歴史からいっても、そうだと思います。

 その意味で、この本が主張していることは、2000年この方、世界各地の様々なキリスト者集団で起きてきた信仰復興運動や宗教改革運動の一つにすぎない、と言ってしまえば、それまで。新規性は全く何もありません。これは左様に存じます。

 しかし、ミーちゃんはーちゃんも数十年キリスト教界の隅っこで生きてきて、いろんな方々と出会ううちに、あれ、と思うことがございました。特に若い方々とお話ししていると。

 時々お会いする方々が日常の教会生活の中でお聞きになり、お触れになるさまざまなこと(それは説教であったり、祈りであったり、指導・訓戒であったり、他愛のない日常会話のこともありますが)の一部によって本来の『福音』そのもの、あるいは『福音』の中にあるキリスト者としての生き方が少し見えにくくなっているかもしれない、と思われる事例に何例も出会ったからです。

 ミーちゃんはーちゃんが思います『福音』とは、『神とともに生きる、神の民とともに生きる中で、神を日々知り、味わっていく(J.I.Packerの「神について」原題はKnowing Godでご主張になられているように味わうこと)、その生活』がある面、『福音』ではなかろうかと愚考しております。福音とは、概念でもなく、ことばでもなく、聖書の理解の体系でもなく。

 ある方はこれを「宣教」と呼び、ある方はこれを「伝道」とよび、ある方は、これを「あかし」と言うラベルで呼ばれるかもしれませんが。

失意の中でも、ダメ信者であっても
神とともに生かされているのが『福音』
 見栄を張って、自分の力で頑張って、頑張って、倫理的、あるいは良心的に、あるいはお行儀よく、あるいは外見的にある基準に沿って、清く正しく美しく、そのために背伸びして生きようとして生きるだけがキリスト者の生活でもないように思うのです。

 むしろ、ときに神から離れることもありつつ、普通に生き生きと神とともに楽しく生きること、たとえ、病気や事故といった不幸な環境の中でも、あるいは絶望的な状況の中、失意の中でも、そしてときにヨブのように神を云々したりするような、いかにダメな自分であっても、いやむしろダメな自分だからこそ、神とともに生きているということが不自然ではなく、神のものとして神とともに生きることを自然なものとしていきてほしいと思うのです。それこそが『福音』であり、『福音』に生きる、いや、『福音』に生かされている、ということだと思ったからでございます。

 つまり、イエスの語ったこと、聖書が語ること、旧約聖書が語り、そして黙示録に至るまでの聖書全体が語っている、神とともに生きる生活、そして神の民と神の民の群れを形成しつつダイナミックに、神とともに生き生きとして喜んで生きることが『福音』、すなわち「神とともに人が生きること」なのではないか、ということを思うからです。そして、そのことは実に楽しいし、その意味で困難の中にあっても、絶望的な中にあっても、毎日がみずみずしい『福音』であると思うからなのです。

地上にあるリアルな空間としての
教会卒業者やお一人様クリスチャンのために
 そして、さまざまな理由から教会卒業者やお一人様クリスチャンと呼ばれる状態になっていたとしても、もし、そのような皆様方が、たとえ、地上にリアルな空間的存在や活動としての教会につながることはできなくても、リアルな教会(建物やプログラム、教会籍や献金などを含めた諸制度、そこに集う牧会者を含めたキリスト者、また、そこで語られることば、あるいは理解としての聖書理解や『福音』と称されるもの、その他のダイナミズムを含めたもろもろが渾然一体となして生み出しているバーチャルというかスピリチュアルなものを含めての総体としての教会)の一部に絶望感を覚え、失望し、そこに集うことに障害や困難を覚えていても、ある面、それができなくても、もしイエスに立ち戻り、イエスとともに生き、そして、神とともに生き、神とともに生きようとし、神に向き合うなら、それは『福音』に生きているのではないか、と思うのです。そして、神ご自身がその全人格をかけて私たちに『福音』に生きるようにお招きなのだと思います。

 つまり、荒野を歩くような生活をしているはぐれキリスト者、神から離れたかにみえるキリスト者、お一人様クリスチャン、教会卒業者、放浪の教会生活者であっても、背信のイスラエルを愛したもうた神は見放し給わず、共に歩こうとお招きになっておられることを確信する時、我々は、イスラエルの民の厚顔無恥を非難するのではなく、また自身のふがいなさを責めるでもなく、そこを見つめていじいじするでもなく、我らも背信のイスラエルの民の一部として、その神に立ち戻り、その神とともに生きる。その神を見つめることで今を生きるのが「福音」であり、その福音に生きることが「今、ここでも」できることを知っていただきたい(再発見していただきたい)、という思いをもって出版したいなぁ、と素朴に思ってしまったのです。思ったあとが大変ですけど。

ミーちゃんはーちゃんは教会も重要と思います
 上のようなことを書くと、「無教会派」の皆さんと混同されそうですが、ミーちゃんはーちゃんは、無教会派には属しておりません。むろん、無教会派の皆様も深く尊敬いたしております。そのお考えにミーちゃんはーちゃんは同意できない部分があるとしても。

 確かに、15年戦争中葉から末期、私のおりますキリスト者集団の諸先輩方のうちには、特高警察にいわゆる「無教会派」と間違われ、つけ狙われた方もおられます。何人かの諸先輩方のうちには、女性信徒を含め、治安維持法関連で取り調べを受けた方もございます。しかし、ミーちゃんはーちゃんは教会無用論者ではないと自らを省みて、そのように思います。他の方がどう思われるのはご自由ですが。

 リアルな信仰共同体として、この地上に形成されている「教会」の価値、とりわけ聖餐について非常に高く評価しております。それは、神の民として多くでありながら神にあって一つであることを、聖餐あるいは礼拝という形を通して、誰でもが参加することで、たとえ、講壇から語らなくても、その場に参加するだけでも、讃美歌を歌うだけでも、そして、聖書のことばを聞くことだけでも、声を発することなく福音を宣言できるのではないか、と愚考しているからでもあります。

 だからこそ、神とともに生きようとする人々には、できるだけ、自分以外の神の民とともに生きることにも立ち戻られることを様々な皆様方に個人的にはお勧めいたしております。

次回に続きます。

2013年7月11日木曜日

「福音の再発見」トークバックセッションご案内





 一部の皆様からの熱きご要望にお応えして、関東と関西でイベントを開催します。


 「福音の発見」をお読みいただいた方(まだ読んでない方も、これから読む予定の方も)集まって「福音の発見」よもやま話トーク(お茶飲み話)しませんか。いや、私たちは、皆様からの直接のお声を聴きたいです。ぜひ教えてください。

 ところで、発売からまもなく2ヶ月。予想を超えて多くの方に購入頂き、また色々なところから反応を寄せて頂いています。誠にありがとうございます。この場をお借りして、こころよりの御礼を申し上げます。

 また、さる6月23日には訳者の中村佐知さんの来日に合わせて、御茶ノ水CLC書店で「出版記念トークイベント」を出版企画に携わった者たちが中心になり実施いたしました。

 今回はイベントとしてはちょっとこじんまりしたミニイベントですが、お読みいただいた皆様、あるいはまだ読んでないけど、ちょっと話してみたい、という皆様とのお茶飲み話大会(いえ、意見交換)の場を設けたいと思います。今回のイベントの主役は「福音の発見」買ってくださり、読んでくださった皆様でございます。一応、話のきっかけとしてのミニトーク(10分)もありますけど。

 日曜の午後で出にくい時間帯とは存じますが、時間とエネルギーに余裕がある方は是非ご参加くださいますように



開催会場および時間
1. 神戸三宮の集い
 とき:   2013年8月11日)午後2-4時(時間中出入り自由)
 ところ: 神戸市勤労会館 応接会議室 (10名)         
         スコット・マクナイト研究会 名義

       神戸市勤労会館はこちら
        (http://www.kobe-kinrou.jp/shisetsu/kinroukaikan/index.html
       ミント神戸の東、サンパルの南、中央区役所の隣(三ノ宮駅から徒歩5分)


 なにするの:

   ミニトーク::巣鴨聖泉キリスト教会のタカ牧師、
      タイトル「福音の再発見」で大事なのは「どこから始めるか」です。

   ホスト  :ミーちゃんはーちゃん

   お茶飲み話
   その後はお茶を飲みながら自由にチャットチャット(福音の発見関連のお茶飲み話)
    お茶と紙コップ類、簡単なスナックはこちらで用意します。

 ※参加費 一人200円+自由献金(箱入れ形式)
 ※お問合せ kawamukaihajime*gmail.com 
           (*マークを半角の@に変えてください)
          TEL 090-1246-7027 (かわむかい)


2. 巣鴨の集い
 とき:  2013年8月25日)午後2-4時(時間中出入り自由)
 ところ: 木工房活水・ティールーム(8名)巣鴨聖泉キリスト教会 隣接

     アクセスはこちらhttp://www010.upp.so-net.ne.jp/Sugamo-Seisen/access.htm 

 なにするの: 
   ミニトーク:巣鴨聖泉キリスト教会のタカ牧師、
      タイトル「福音の再発見」で大事なのは「どこから始めるか」です。
 

   お茶飲み話
   その後はお茶(持込)を飲みながら自由にチャットチャット(福音の発見関連のお茶飲み話)


 ※参加費、一人500円
 ※お問合せ、sugamo_seisen*yahoo.co.jp
           (*マークを半角の@に変えてください)

        電話03-3946-8035

 
  なおスペースの関係上、1、2、いずれの集いも、準備の関係もございますので、前日までに「出席します」と一声お名前(メールの場合、お名前の読み方のカナ表記)、メールでお知らせいただけると誠に助かります。ご無理な方はお電話にて承ります。

2013年7月8日月曜日

発売後の反応⑤

タカ牧師です。

今までは「読者の反応」を紹介して来ました。

今回は「キリスト教書関連で仕事をしている者も一意見」と言うことで「業界の反応」と言うなかなか聞けない貴重なものをご紹介。
「なぜこの本が売れるのかについて」考えたことをお書きします。
本の売れ行きを左右する要素として①内容②タイトル③装丁(表紙・帯など)④著者の人気度⑤価格⑥発売時期⑦広告方法⑧口コミ・・・などがあげられますが、
この本は、特に①内容②タイトル③装丁が良かったと思います。
①内容:多くの人が知りたいのは、律法ではなく「福音」であり、その「福音」について直接の内容なので関心を引き付けた。
②タイトル:タイトルに「福音」という言葉が入っているのが良い。
また、「再発見」という表現は、今までの理解を否定するようなイメージがなく、その上でさらなる発見がありそうな期待が持てるので良い。
③装丁:タイトルが見やすく、親しみやすい装丁(堅苦しくない)。特に帯の「なぜ、多くの若いキリスト者が、今日、教会を去ってしまうのか?」というコメントが良い。
この問題は、日本の多くの教会が現在抱えている問題なので、この本を読めばその解決ができそうな気がする。
また、もしかするとこの本を読んで「良かった!」と思った読者が、⑧口コミで広めてくださっているのかもしれませんが、はっきりとした情報は掴んでおりません。
と言うことです。

近年キリスト教書籍は大変苦労していると聞きます。

ついコスト削減で「装丁」を簡単にしたりしていないでしょうか。
内容が良くても、やはり本の装丁は購入候補者との最初のインターフェース。
もっと大事にしてもいいかもしれませんね。

ではまた「反応」サーチしに行ってきます。

2013年7月3日水曜日

発売後の反応④

今回は関連ツイート(でのやりとりも含めて)を少し紹介しよう。







ブログ記事ではこんなのがある。
リンク
「問題意識は高いが、画竜点睛を欠くかも?」 と言う指摘、ある意味当たっている。
そして、著者なりに「福音とは?」どういうものかを提示しています。
(P.210〜216「福音の概略」)
「四つの法則」ならものの数分で説明が足りるところを、
著者のいう「福音」は朗読するだけで10分ぐらいかかるでしょうし、
キリスト教的素養がない中で理解できる人はごくわずかではないでしょうか?
(途中で「「それについては、いずれまた聞かせてもらうことにしよう」と言った。
(使徒言行録17:32新共同訳)というのが続出?)
なるほど。
でも(個人伝道の場面では)「四つの法則」の前後にやはり結構な時間を使うと思いますよ。
この本の読後感は、あえて言えば「???」という感じでした。
確信や信仰の喜びを実感する、というのにはほど遠いものがありました。
なぜでしょうか? 正しく福音を認識する、聖書全体を学ぶ、正しい正統信仰を持つ、
教会暦や使徒信条といった信仰の遺産を再評価するなど、
いろいろ書かれてはいますが、
この本において決定的に欠けているのは、聖霊様の御力です。
聖霊様抜きで、著者が主張するような「正しい」福音を語ったとしても、
説得力に欠けるものではないでしょうか?
(途中略)
聖霊によらなければ、だれも「イエスは主である」とは言えないのです。
(新約聖書コリントの信徒への手紙Ⅰ12:3新共同訳)
そういう意味で、深くて問題意識を提示したものの、聖霊様の働き、という「画竜点睛」を欠いてしまった、というのが、本書の実に惜しいところでした。
大変良いご指摘です。

実は最近北米において福音派も含めて(主流派は大分前から)礼拝出席者数、教会会員数が減少傾向にあることがはっきりしてきたようです。(ダイアナ・バトラー・バスの最近刊
彼女はその退潮傾向から再復興する鍵を「ビリーフ(信じている事柄)」中心の宗教からの脱却にヒントを求めているようです。

問題はただ単に「より正しく福音を語る」だけではないことは明らかだと思います。
しかしマクナイトも、彼の兄貴分のN.T.ライトも、聖霊抜きでは福音は効果を発揮しないことは織り込み済みです。
小嶋の理解では、マクナイトは、ほぼ前提にしていることを抜かしてしまった、と言うことだと思います。
福音の宣言はただ人が語るのではありません。
神のことばとして福音が語られる時(ローマ10:8-10)、聖霊が働くのです。

たとえ「四つの法則」であろうが、稚拙な伝道説教であろうが、イエスがメシアとして、主として提示される時、聖霊は聞く者に働いてその言葉を信仰を持って受け入れるよう促すのです。

そう理解すべきであろうと思います。

では何が異なるのか。
やはり「四つの法則」のような短縮形で福音を提示された人が、その後に福音理解を深めて行くことが大切なのです。
復活後の弟子たちがイエスを通して、聖書全体が約束の成就としてイエスを語っていることを理解する必要があったように。(ルカ福音書24章)

と言う訳で、今回は色々紹介しただけで、十分コメントすることができなかった方々には申し訳ありません。取上げただけの方々にも感謝申し上げます。