2013年7月12日金曜日

福音の再発見のタイトルにしたわけ(1)

ミーちゃんはーちゃんです。長くなるので、2回に分けようかと思います。ミーちゃんはーちゃんは一介の平信徒にすぎませんので、まだ、一般の方々のお気持ちに添える形でご説明しやすいかと思い、書いてみることにします。長い、くどい、というは承知しておりますが。

こころから御礼申し上げます
 水谷先生、「福音の発見」をブログ記事として、何度もお取り上げいただき、心から御礼申し上げます。

「福音派はおかしい」とか「福音派はダメ」とか(聖霊派も含めた広義の)福音派に属する者が、反応するのは、違うだろう
本邦訳書の出版企画側(CRISP)の意図を正確にご理解いただき、感謝申し上げます。

 ミーちゃんはーちゃんは福音派と呼ばれるところの片隅(ミーちゃんはーちゃんは福音派の外だ、と言われても甘んじて受けとめたく存じます。といいますのは、そもそも、キリスト教界の枠組みをほぼ無視する集団におりますので仕方ないとは存じております)におりますので、福音派の皆様がヲワコンとか、福音派の皆様がおかしい、その聖書理解に問題がある、あるいは、本書でふれられているパイパー先生のお考えがどうのこうのとか申し上げるつもりで本書の出版を企画したわけではございません。

本出版の企画意図
 本書の出版企画したCRISP(というよりはミーちゃんはーちゃんが一人でしておりますものですから、実態としてはミーちゃんはーちゃん)としての企画意図は、できるだけ多くの皆様が聖書の主張に立ち戻ってお考えいただけたら、ということでございます。

 どのようなキリスト教会様にあっても、どのキリスト者様でも、歴史的な経過の中で、あるいは人生の中で、様々なものが知らず知らずに付随してしまいます。そして、それが本来のものを本来のものとして見えなくなすることがございます。従いまして、我々が立ち戻るべきところ、つまり歴史の過程の中でさまざまなものに覆われてしまっているかもしれないものをちょっぴりだけ取り除き、再発見(Recover)したほうがよいところがあるとおもったからです。

 ところで、商船でも軍船でも、船は、長らく航海しますと、船底に牡蠣がらだの藤壺だのが付着いたします。すると、船体の運動能力(速力や旋回力など)が本来の設計基準(諸元)から次第に落ちてまいります。そこで、定期的にドック入りし、船底についた牡蠣がらだの藤壺などをこそげ落とし、船体を再塗装いたすため、造船所のドックでメンテナンスいたします。それと同じように、キリスト者が生き生きとした信仰を保つために、ときにドックインし、自分自身を見直す作業をしておく必要があるのではないか、と思うのです。何気なく生きていると、どうしても、この種の信仰に関するメガネというか、それを覆う膜のようなものが付随してしまう、と思うんですね。ミーちゃんはーちゃんの体験的黒歴史からいっても、そうだと思います。

 その意味で、この本が主張していることは、2000年この方、世界各地の様々なキリスト者集団で起きてきた信仰復興運動や宗教改革運動の一つにすぎない、と言ってしまえば、それまで。新規性は全く何もありません。これは左様に存じます。

 しかし、ミーちゃんはーちゃんも数十年キリスト教界の隅っこで生きてきて、いろんな方々と出会ううちに、あれ、と思うことがございました。特に若い方々とお話ししていると。

 時々お会いする方々が日常の教会生活の中でお聞きになり、お触れになるさまざまなこと(それは説教であったり、祈りであったり、指導・訓戒であったり、他愛のない日常会話のこともありますが)の一部によって本来の『福音』そのもの、あるいは『福音』の中にあるキリスト者としての生き方が少し見えにくくなっているかもしれない、と思われる事例に何例も出会ったからです。

 ミーちゃんはーちゃんが思います『福音』とは、『神とともに生きる、神の民とともに生きる中で、神を日々知り、味わっていく(J.I.Packerの「神について」原題はKnowing Godでご主張になられているように味わうこと)、その生活』がある面、『福音』ではなかろうかと愚考しております。福音とは、概念でもなく、ことばでもなく、聖書の理解の体系でもなく。

 ある方はこれを「宣教」と呼び、ある方はこれを「伝道」とよび、ある方は、これを「あかし」と言うラベルで呼ばれるかもしれませんが。

失意の中でも、ダメ信者であっても
神とともに生かされているのが『福音』
 見栄を張って、自分の力で頑張って、頑張って、倫理的、あるいは良心的に、あるいはお行儀よく、あるいは外見的にある基準に沿って、清く正しく美しく、そのために背伸びして生きようとして生きるだけがキリスト者の生活でもないように思うのです。

 むしろ、ときに神から離れることもありつつ、普通に生き生きと神とともに楽しく生きること、たとえ、病気や事故といった不幸な環境の中でも、あるいは絶望的な状況の中、失意の中でも、そしてときにヨブのように神を云々したりするような、いかにダメな自分であっても、いやむしろダメな自分だからこそ、神とともに生きているということが不自然ではなく、神のものとして神とともに生きることを自然なものとしていきてほしいと思うのです。それこそが『福音』であり、『福音』に生きる、いや、『福音』に生かされている、ということだと思ったからでございます。

 つまり、イエスの語ったこと、聖書が語ること、旧約聖書が語り、そして黙示録に至るまでの聖書全体が語っている、神とともに生きる生活、そして神の民と神の民の群れを形成しつつダイナミックに、神とともに生き生きとして喜んで生きることが『福音』、すなわち「神とともに人が生きること」なのではないか、ということを思うからです。そして、そのことは実に楽しいし、その意味で困難の中にあっても、絶望的な中にあっても、毎日がみずみずしい『福音』であると思うからなのです。

地上にあるリアルな空間としての
教会卒業者やお一人様クリスチャンのために
 そして、さまざまな理由から教会卒業者やお一人様クリスチャンと呼ばれる状態になっていたとしても、もし、そのような皆様方が、たとえ、地上にリアルな空間的存在や活動としての教会につながることはできなくても、リアルな教会(建物やプログラム、教会籍や献金などを含めた諸制度、そこに集う牧会者を含めたキリスト者、また、そこで語られることば、あるいは理解としての聖書理解や『福音』と称されるもの、その他のダイナミズムを含めたもろもろが渾然一体となして生み出しているバーチャルというかスピリチュアルなものを含めての総体としての教会)の一部に絶望感を覚え、失望し、そこに集うことに障害や困難を覚えていても、ある面、それができなくても、もしイエスに立ち戻り、イエスとともに生き、そして、神とともに生き、神とともに生きようとし、神に向き合うなら、それは『福音』に生きているのではないか、と思うのです。そして、神ご自身がその全人格をかけて私たちに『福音』に生きるようにお招きなのだと思います。

 つまり、荒野を歩くような生活をしているはぐれキリスト者、神から離れたかにみえるキリスト者、お一人様クリスチャン、教会卒業者、放浪の教会生活者であっても、背信のイスラエルを愛したもうた神は見放し給わず、共に歩こうとお招きになっておられることを確信する時、我々は、イスラエルの民の厚顔無恥を非難するのではなく、また自身のふがいなさを責めるでもなく、そこを見つめていじいじするでもなく、我らも背信のイスラエルの民の一部として、その神に立ち戻り、その神とともに生きる。その神を見つめることで今を生きるのが「福音」であり、その福音に生きることが「今、ここでも」できることを知っていただきたい(再発見していただきたい)、という思いをもって出版したいなぁ、と素朴に思ってしまったのです。思ったあとが大変ですけど。

ミーちゃんはーちゃんは教会も重要と思います
 上のようなことを書くと、「無教会派」の皆さんと混同されそうですが、ミーちゃんはーちゃんは、無教会派には属しておりません。むろん、無教会派の皆様も深く尊敬いたしております。そのお考えにミーちゃんはーちゃんは同意できない部分があるとしても。

 確かに、15年戦争中葉から末期、私のおりますキリスト者集団の諸先輩方のうちには、特高警察にいわゆる「無教会派」と間違われ、つけ狙われた方もおられます。何人かの諸先輩方のうちには、女性信徒を含め、治安維持法関連で取り調べを受けた方もございます。しかし、ミーちゃんはーちゃんは教会無用論者ではないと自らを省みて、そのように思います。他の方がどう思われるのはご自由ですが。

 リアルな信仰共同体として、この地上に形成されている「教会」の価値、とりわけ聖餐について非常に高く評価しております。それは、神の民として多くでありながら神にあって一つであることを、聖餐あるいは礼拝という形を通して、誰でもが参加することで、たとえ、講壇から語らなくても、その場に参加するだけでも、讃美歌を歌うだけでも、そして、聖書のことばを聞くことだけでも、声を発することなく福音を宣言できるのではないか、と愚考しているからでもあります。

 だからこそ、神とともに生きようとする人々には、できるだけ、自分以外の神の民とともに生きることにも立ち戻られることを様々な皆様方に個人的にはお勧めいたしております。

次回に続きます。

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