「福音の再発見」ファン感謝デー
の報告はまた後日することとして、
今回はブログではなくSNSから入手した「読者の反応」と言うことで取上げさせて頂きます。
疑問その①「簒奪」
先ず、長くなりますが、コメントを引用させて頂きます。
「この世界を、神に代わって治めること」(210頁)の「世界」というのは被造物全体、被造物同士の関係というふうに理解しました。
動植物を含む自然環境、自分の身体、他人の身体、それら同士の関係。
「治める」というのは管理するというふうに理解しました。
「この世における神の支配を簒奪し」(211頁)の簒奪は「世界」を自分の所有物のようにあつかうというふうに理解しました。
管理を任され ていた管理人が、任されていた土地や家屋などの物件を台無しにしたり勝手に売り払ったりするというイメージ、自分の身体を傷つけたり自殺したり、他人の身体を傷つけたり殺したり、人間同士の関係を破壊したり、自然環境との共存を拒否してそれをねじ伏せるようなイメージ。筆者自身はどんなイメージで、治めるとか、簒奪とかいうことばを使っていたんでしょうか。
「簒奪」「簒奪者」は英語では、"usurp" "usurper"の訳語で、校正の時も含めて適訳がないか、色々と迷った語の一つです。
最初から「大きな話」になって恐縮ですが、マクナイトは「王なるイエス」を、創世記から始まる「エイコン(神の像)」の任務の引継ぎストーリー(アダム→アブラハム→ダビデ)を完成するお方として提示するのが『福音』だ、と言っているのだと思います。
そうすると、「この世における神の支配を簒奪し」(211頁)の簒奪は、アダムがエイコンとして、神の代理者・代理王として非常に高い位置に置かれていながら、神ご自身の権威を奪い取ると言う、かなり倒錯的な反逆行為を行なった、と言うことであり、単に道徳的に逸脱したとか、命令に違反したとかのレベルの話ではない、と言うことを指摘しようとしているのだと思います。
ですから、「王なるイエス」の福音は、イエスが真の「神のエイコン(神の像)」となられることによって、そのとてつもない罪の解決者として提示されるストーリーなのだ、となるわけです。
その神学的ストーリー構成を、ピリピ2:6-11、コロサイ1:15-20、Ⅱコリント3:18-4:6に見ることができる、と指摘しています。
疑問その②「gospelか、それともgospelsという複数形か、の話」
先ず、また、コメントを引用します。
112頁に出てくるgospelかgospelsかという複数形の話について。言いたいことはよくわかりますが、 ここまでわざわざ福音は複数ではないと言わなければならないのか、理解に苦しむとまでは言いませんが不思議な気がします。「四福音書」という日本語を見て、福音が複数あるなどとは誰も考えません。ただ福音書が4つあるんだなと思うだけです。「単複両用形」が欠如した言語を使っているからこそ生じるこだわりなんでしょうね。
この問題は、「福音」を私たちが理解する場合陥りやすい誤解に関連しているだけでなく、「福音」はそもそも一つだ、と言う確信に遡る重要な問題だと思います。
と言うわけで、「単複両用形」に関する彼我の言語の違いから来る問題ではないと言えるでしょう。
既にこの本でも論議されている「イエスの福音」と「パウロの福音」との相違が果たしてあるのか、と言う問題が出ています。
さらに現在の読者は「福音書」があたかも「文学ジャンル」として存在していたような印象を受け取りやすい、と言う問題もあります。(四福音書にはもともと「福音書」などと言う定義は含まれていません。マルコの冒頭にある「福音」もタイトルを表すかどうかは議論されています。)
マクナイトはここでは議論に含めていませんが、現在の新約聖書学には「トマスの福音書」や他の「福音書」も、キリスト教の多様な表現として認められるべきだ、と言う議論があります。
四福音書が複数の福音書ではなく、異なる、匿名の著者による、「一つの福音」として認識されることはかなり重要な神学的認識・判断を含むものだ、と言うことだけ指摘しておいた方がいいでしょう。
Ⅰコリント15章の「福音」は、使徒たちによって「伝承された福音である」という時、それが真正性が担保されたものであることを示唆するものであり、使徒たち以外から伝えられた「異なる福音」に対する規準ともなるわけです。
その意味で単数形で言及される「福音」は文書化される前も後も重要なポイントだと言うことをマクナイトは指摘しようとしているのだろうと思います。
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