今回ご紹介する記事はかなりディープです。
クリスチャン・ブログとしてはかなり古参の一つと言えるのではないかと思いますが、「ミルトスのかげで(旧「はちことぼぼるの日記」)」に掲載された二つの記事がなかなか読み出があります。
福音のこと、ちょっと
福音のこと、ちょっと(2)
「いいね」ボタンの数を見ても、コメント書き込みを見ても、結構反響があるのが分かります。
いわゆる「地獄の恐ろしさを前面に出して入信を迫る」福音提示の問題ですね。
イエス・キリストを救い主と信じなければ、あなたは「地獄行き」です、と語られる伝道メッセージはまだまだ福音派の支配的なパラダイムではないですかね。
しゃべり方をソフトにしたり、トーンダウンしたりとそれなりに工夫はしていると思いますが・・・。
このような「ヘル・ファイアー」型説教の元祖と言われたりする、18世紀北米第1次大信仰覚醒運動の指導者、ジョナサン・エドワーズの「怒れる神の御手の中にある罪人」について一言。
(彼のリバイバル説教の背景については、このブログ記事を参照してみてください。)
余り混み入ったことは書きませんが、エドワーズのこのようなエモーショナルな面に訴え「まるで地獄に行っているような感を与える」説教の下敷きとなった『認識論』、当時で言うと最先端であった英国人ジョン・ロックの思索を大陸でいち早く取り入れた成果であった可能性があります。
何て言うか単に「知的に知る=命題化された知識を肯定する」だけではなく、より知覚的な体験化される知識・・・とでも言いましょうか。
ですからそのような知見を説教に取り入れると言うのは先端的な試みだったのではないかと思います。
ただそのうちの一つが「地獄」であり、それが第一次大信仰覚醒運動だった、ということになるのでしょうが。
さてそのようなエドワーズの試みとは時代を隔てて、20世紀のビリー・グラハムのリバイバル・クルセードのような大衆伝道における文脈は大分異なってくるのではないかと思います。
ビリー・グラハムの伝道説教がそうであったとは断言できませんが、このような伝道メッセージの方法から、人心操作、心理的操作の要素が次第に巾を利かすようになってきたのではないかと思うのです。
スケアー・タクティックとも言いますが、多分にレトリカルな言語を用いながら人心を話者が目指す方向に誘導するような話術とでも言いましょうか。
話者と聞く者とが「真理の伝達」と言う前提でコミュニケーション基盤が出来ていればまだいいですが、そのような「言葉を介しての相互信用」が担保されない、利害を異にする他社対他者の関係において、たとえば広告と言うような場面で「心理操作」は見えない形で巧妙に使われます。
一定の効果を発揮する技術としてこのような心理操作が「福音の伝達」という大義名分のもとに、目的が手段を正当化する、と言うような意識で知らず知らずのうちに乱用されるようになってきたのだとしたら・・・。
その辺が「地獄」を前面に出す説教に問題として内在していないか、と懸念するのです。
そのようなテクニックは更に巧妙化する可能性があります。
これは街頭での一応対話形式の伝道と言う体を取っています。
しかしよく聞いていくと、キリスト教にネガティブな意識を持つ人々に、フェアーに真理を論証していると見せながら、聞く側の感情を徒に刺激したり、それをばねにして論争を発展させその間にポイントを稼ぐ、と言うかなり洗練されたテクニックになっているように思うのです。
このケースでは相手をした女性が次第に追い込まれ泣いてしまいます。
議論で公平を装いながら、この議論についつい誘い込まれた女性を利用して、聞いている周りの人たちに理論的に筋が通っているのは自分の方であることを間接的にデモンストレートする方法です。
このような方法がどの程度効果があるのかはかなり疑問です。
逆効果の方が大きいのではないかと思います。
実際別の女性は「如何にお前がやっていることはひどい」かを列挙してその場を後にする例もあります。
どちらにしても相手の感情を逆なでしたり、挑発したりしながら、議論に持ち込んでポイントを稼ぐ伝道方法と言うのは、倫理的にかなりどうかと思います。
かなり「地獄」の話題からは逸れてしまいましたが、一つこのような伝道方法を考える時に参考になる聖書のエピソードを挙げておきます。
使徒行伝27章に囚人となってローマに行くパウロのことが書いてありますが、この時乗船した船が嵐で難破しそうになります。
嵐は収まりそうも無く、人々が生きる望みを殆んど失いかけていた時、パウロは間近に迫った死に備えて、「あなたがたは今天国に行くか、地獄に行くか、二つ道のうちどちらかを選ぶ岐路に立たされています」、などと伝道説教したでしょうか。
あのパウロがしなかったとしたら(少なくともルカはそのようなことを記述していません)、パウロは伝道者として余りにも無責任だったのでしょうか・・・。
最後に時代はどのように変わっても、キリスト者が自らの信仰を弁明する時に必要な態度として少なくとも二つあるのではないかと思うのです。
①聞く者の「良心」に訴える
使徒行伝の使徒たちの説教(ルカによってかなり要約されていますが)を見てみると、(旧約)聖書に照らしてイエスがメシアであることを論証し説得しようとした、と言う事がいたるところで記されています。その上で福音に応答するかどうか「良心」に訴えた、と言えるのではないかと思います。
②慎み深く弁明する
公的な場で論証する機会に恵まれない場合、キリスト者はその生き様で証ししたのだと思います。そしてその生き様が引き金となって周囲の人に「どうして」と聞かれた時、福音を弁明する機会を得たわけです。(ペテロの手紙一3:15)