2014年3月21日金曜日

「福音のこと、ちょっと」

タカ牧師です。

今回ご紹介する記事はかなりディープです。

クリスチャン・ブログとしてはかなり古参の一つと言えるのではないかと思いますが、「ミルトスのかげで(旧「はちことぼぼるの日記」)」に掲載された二つの記事がなかなか読み出があります。

福音のこと、ちょっと 

福音のこと、ちょっと(2)

「いいね」ボタンの数を見ても、コメント書き込みを見ても、結構反響があるのが分かります。

いわゆる「地獄の恐ろしさを前面に出して入信を迫る」福音提示の問題ですね。

イエス・キリストを救い主と信じなければ、あなたは「地獄行き」です、と語られる伝道メッセージはまだまだ福音派の支配的なパラダイムではないですかね。

しゃべり方をソフトにしたり、トーンダウンしたりとそれなりに工夫はしていると思いますが・・・。

このような「ヘル・ファイアー」型説教の元祖と言われたりする、18世紀北米第1次大信仰覚醒運動の指導者、ジョナサン・エドワーズの「怒れる神の御手の中にある罪人」について一言。
(彼のリバイバル説教の背景については、このブログ記事を参照してみてください。)

余り混み入ったことは書きませんが、エドワーズのこのようなエモーショナルな面に訴え「まるで地獄に行っているような感を与える」説教の下敷きとなった『認識論』、当時で言うと最先端であった英国人ジョン・ロックの思索を大陸でいち早く取り入れた成果であった可能性があります。

何て言うか単に「知的に知る=命題化された知識を肯定する」だけではなく、より知覚的な体験化される知識・・・とでも言いましょうか。

ですからそのような知見を説教に取り入れると言うのは先端的な試みだったのではないかと思います。
ただそのうちの一つが「地獄」であり、それが第一次大信仰覚醒運動だった、ということになるのでしょうが。

さてそのようなエドワーズの試みとは時代を隔てて、20世紀のビリー・グラハムのリバイバル・クルセードのような大衆伝道における文脈は大分異なってくるのではないかと思います。

ビリー・グラハムの伝道説教がそうであったとは断言できませんが、このような伝道メッセージの方法から、人心操作、心理的操作の要素が次第に巾を利かすようになってきたのではないかと思うのです。

スケアー・タクティックとも言いますが、多分にレトリカルな言語を用いながら人心を話者が目指す方向に誘導するような話術とでも言いましょうか。

話者と聞く者とが「真理の伝達」と言う前提でコミュニケーション基盤が出来ていればまだいいですが、そのような「言葉を介しての相互信用」が担保されない、利害を異にする他社対他者の関係において、たとえば広告と言うような場面で「心理操作」は見えない形で巧妙に使われます。

一定の効果を発揮する技術としてこのような心理操作が「福音の伝達」という大義名分のもとに、目的が手段を正当化する、と言うような意識で知らず知らずのうちに乱用されるようになってきたのだとしたら・・・。

その辺が「地獄」を前面に出す説教に問題として内在していないか、と懸念するのです。

そのようなテクニックは更に巧妙化する可能性があります。


これは街頭での一応対話形式の伝道と言う体を取っています。

しかしよく聞いていくと、キリスト教にネガティブな意識を持つ人々に、フェアーに真理を論証していると見せながら、聞く側の感情を徒に刺激したり、それをばねにして論争を発展させその間にポイントを稼ぐ、と言うかなり洗練されたテクニックになっているように思うのです。

このケースでは相手をした女性が次第に追い込まれ泣いてしまいます。
議論で公平を装いながら、この議論についつい誘い込まれた女性を利用して、聞いている周りの人たちに理論的に筋が通っているのは自分の方であることを間接的にデモンストレートする方法です。

このような方法がどの程度効果があるのかはかなり疑問です。
逆効果の方が大きいのではないかと思います。
実際別の女性は「如何にお前がやっていることはひどい」かを列挙してその場を後にする例もあります。

どちらにしても相手の感情を逆なでしたり、挑発したりしながら、議論に持ち込んでポイントを稼ぐ伝道方法と言うのは、倫理的にかなりどうかと思います。

かなり「地獄」の話題からは逸れてしまいましたが、一つこのような伝道方法を考える時に参考になる聖書のエピソードを挙げておきます。

使徒行伝27章に囚人となってローマに行くパウロのことが書いてありますが、この時乗船した船が嵐で難破しそうになります。

嵐は収まりそうも無く、人々が生きる望みを殆んど失いかけていた時、パウロは間近に迫った死に備えて、「あなたがたは今天国に行くか、地獄に行くか、二つ道のうちどちらかを選ぶ岐路に立たされています」、などと伝道説教したでしょうか。

あのパウロがしなかったとしたら(少なくともルカはそのようなことを記述していません)、パウロは伝道者として余りにも無責任だったのでしょうか・・・。

最後に時代はどのように変わっても、キリスト者が自らの信仰を弁明する時に必要な態度として少なくとも二つあるのではないかと思うのです。

①聞く者の「良心」に訴える
 使徒行伝の使徒たちの説教(ルカによってかなり要約されていますが)を見てみると、(旧約)聖書に照らしてイエスがメシアであることを論証し説得しようとした、と言う事がいたるところで記されています。その上で福音に応答するかどうか「良心」に訴えた、と言えるのではないかと思います。

②慎み深く弁明する
 公的な場で論証する機会に恵まれない場合、キリスト者はその生き様で証ししたのだと思います。そしてその生き様が引き金となって周囲の人に「どうして」と聞かれた時、福音を弁明する機会を得たわけです。(ペテロの手紙一3:15)


2014年3月6日木曜日

ちょっとひねった「福音の再発見」紹介記事

著名なキリスト教ブログ「命と性の日記」で、サータネットの聖書圧縮商品に敵対的な本として紹介されています。(笑)
最近は、「福音の再発見」とかいう本が日本でも出版されたり、「ケープタウン決意表明」が採択されたりと、福音を圧縮するのでなく、本来の深さと広さに回復しようとする流れがあるようですが、私は大変このことを悲しんでおります。そんな信仰理解に立って、その福音に生きようとしたら、大変ですよ。ストレス高いですよ。快適な信仰生活など望めませんよ。
記事(「悪魔の通信販売(2)~聖書圧縮袋」)の最後に
聖なる消費者相談センターよりご注意とお願いです〉 
※この商品の購入はしなくても、聖書を事実上圧縮し、「神・罪・救い」のみを福音理解とした福音の個人化、内心化に由来する様々な被害報告が、当センターに寄せられております。読者の皆様におかれましては、「福音の再発見」や「ケープタン決意表明」をお読みいただき、自らの信仰理解を検討され、聖書が示す本来の福音の豊かさに生きる歩みへと前進されますよう切に願っております。
として推薦されています。

ちょっとひねった推薦記事でした。

2014年3月5日水曜日

発売後の反応⑪

久し振りの「発売後の反応」シリーズでのアップです。

一応記事のアップが2013年8月ですから、まだ発売後3ヶ月のものですね。
先ずちょっと投稿記事からの抜粋です。
自分達こそ聖書的だと自負している21世紀の福音主義者や根本主義者に対する、痛いほどに的を得た内容です。

伝道集会で「決心」した人が次の週に教会に来ない理由は・・・ キャンプで「イエス様を心にお迎えするお祈り」をした子供達のほとんどが教会から消えていく理由は・・・ 私達にとって、そして教会の将来と次世代育成にとって非常に大切な議論です。

やや難しい内容ですが、中村佐知さんのとても読みやすい邦訳です。 
ブログ主は、滝山聖書バプテスト教会牧師、片村 襟舎(エリシャ)さんです。

さてまた少し「反応」を探して見ます。
まだ見つかるかな・・・。

2014年2月18日火曜日

紹介・書評サイト

お久し振りです。タカ牧師です。

大分間が開いてしまいました。

2013年5月に出版されてからまだ1年も経っていないのですが、何かかなり時間が経ったように感じます。

さて今回は小さな報告、と言うか紹介・案内です。

先ずは、「福音の再発見」が北米ロスアンジェルスにあるクリスチャン・ブックセンターと言う本屋さんの「2013年おすすめ書籍」に選ばれました。(リンク

それから、あめんどう出版の小渕さんによる書評が「本のひろば」2013年12月号pdfに掲載されました。
ネットでも読めますのでご一読ください。

世界福音伝道会の「牧羊会」と言うところで紹介されました。(リンク

それではまた。

2013年11月10日日曜日

『福音』とは

お久し振りです。タカ牧師です。

長ーーい間、更新がありませんでした。
失礼しました。

今年5月に発売されてから2ヶ月くらいは「反応」が結構ありました。
その後8月くらいまではちらほら「反応」がありました。

「さすがに」、と言うか、「残念ながら」、と言うか、段々ネット上の反応は少なくなってきたようです。
それで「ネタ探し」も尽きてきたかなー・・・、と思っておりました。

ブログスフィアーでは最早更新のなくなったブログを「ゾンビー」などとおぞましい言葉を使って呼んでおります。

このブログサイトも、まだそこまでは行きませんが、気をつけないと・・・。

それで適当に足跡だけは付けておこうと思いました。

今日の御題は『福音』とは。

まっこのブログサイトは、スコット・マクナイトの「福音の再発見」ファンサイトでもありますから、適当ではないかと思います。

さて「福音とは」や「福音とは何か」でググって見ますと、案外と言うか、何と言うか、辞典系サイトの説明が割合、学術的に、歴史的に、原語的に参考になるものを結構含んでいるように思う。
元来はギリシア語euangelionで語義は〈よい知らせ〉。古典ギリシア文献では,たとえば戦勝の知らせを指して用いられる。ローマ時代には,皇帝を神的存在とみなし(皇帝礼拝),その即位等の知らせを〈よい知らせ〉と呼ぶことが行われた。旧約聖書では,この語に対応するヘブライ語名詞の用例には見るべきものがないが,同じ語根の動詞から出た〈喜びの使者〉の,とくに《イザヤ書》52章7節(前6世紀後半)での用例は,新約聖書の〈福音〉との関連で注目を要する。(「世界大百科事典 第2版の解説」

1 喜びを伝える知らせ。よい便り。「―をもたらす」
2 イエス=キリストによってもたらされた人類の救いと神の国に関する喜ばしい知らせ。また、福音書にしるされているキリストの生涯と教え。(「デジタル大辞泉の解説」・・・以上2件のリンク先

これと比較すると、キリスト教関係者(牧師や、ちょっと知っていそうな信徒の方)の説明は、マクナイトの言う「救い派」丸出しのような内容になりやすい・・・と言う印象を受けます。

マクナイトが案じたように福音を殆んど自明のこととしているために、「神・罪・救い」のメッセージが既に「雛形・下敷き」となっていて、その枠組みで説明してしまおうとする傾向がある。

マクナイトが新約聖書の福音理解のスタートラインとした、第一コリント15章や、(マクナイトは重用しなかったが)ローマ書1章2-4節、『御子の福音』が指示しているように、「十字架の死と復活」と言うイエス・キリストの出来事それ自体が前面に出てくる把握とはやはり隔たりがある。(「補記(1)」参照)

また「福音」と「福音書」がどう言う関係にあるか、と言う問題に対する気付きもまだ余り見当たらないようだ。
(※欧米での一般的理解は、福音はパウロ的「福音」理解、即ち『信仰義認』に還元される傾向があり、福音書は「福音」の本質理解には余り重用されず、「背景となるストーリー」程度に受け止められる傾向がある。「補記(2)」参照)

と言うことで、余り足しにもならないようなことかもしれませんが、間隙を埋めるためのポスト、と言うことでご容赦ください。

ではまた。

補記(1)
福音の「出来事性」の側面の重要性を掴んでいる解説としては、これは参考になるかもしれない。
しかし「十字架」偏重で「復活」が欠落している、とみなされても仕方ないだろう。

補記(2)
福音を日本人にも受容されるように、と言う主張は分かるが、この福音理解の枠組みは「信仰義認」であることに変わりがない、と言えるだろう。

2013年9月9日月曜日

発売後の反応⑩

細々と続いているような印象をお持ちの方も多いことと思います。

タカ牧師、少し夏バテでペースダウンしています。

さて「読者の反応」と言うことでまた一つ。

牧師の書斎
というブログがあります。



何やらとても「ユダヤ的視点から聖書を読み取る」ことに関心の深い牧師さんのようです。
「イエス」と呼ばず、「イェシュア」と表記しています。

ちょっとおっかない感じもしましたが「福音の再発見」が紹介されていますので、記事にしてみようかと。
(※「福音の再発見」の簡単な紹介ではないので、そこのところよくご理解ください。)

以下のような流れで紹介されています。
(4) イェシュアの語った福音
  • 「イエスの福音」ということばを聞いて、このことばに驚かれるクリスチャンもいれば、ほとんど抵抗を感じな い方もおられるのではないかと思います。このことばは、実は、これまでのキリスト教会の福音の理解を再検証する含みで言われていることばなのです。つまり 「十字架の福音」と言うだけでは、「イエスが語ろうとした福音」には届いていないという警鐘的標語なのです。※脚注
  • ※脚注
    画像の説明
    2013.5に、スコット・マクナイト師の「福音の再発見」という本がキリスト新聞社から翻訳出版されまし た。現在用いられている「福音」という言葉は、イエスや使徒たちが意味していた本来の福音をもはや指すものではなくなってしまったと警鐘をならして、イエ スの語った「福音」に焦点を当てています。彼によれば、「福音とはイスラエルの物語を完成させるイエスの救いの物語であり、イエスは明らかに、イスラエル を救う神のご計画の中心に自分を据えていた。」と述べています。別の表現をするならば、「福音とは、イスラエルのメシアであり、すべてのものの主であり、 ダビデの裔(すえ)である救い主イエスの、その救いの物語によって完結するイスラエルの物語である」としています。アーメンです。
と言うことで、「福音の再発見」に限って言えば、仰っておられることは大体そうだと言えるのですが、このページ全体の文脈に広げて見ますと、「イスラエルの回復」とか、「置換神学」、とか幾つか特定の「神学的伝統」の解釈の問題を引きずっている印象があります。

もちろん誰もが一定の神学的伝統(自覚的にか、無自覚的にか)に負いながら「聖書」を解釈しているわけですから、そのこと自体を問題視するだけでは・・・と思います。

ただ別な方から入ってきている「読者の反応」を聞いていますと、やや「我田引水」的に、「福音の再発見」の命題を、それら「特定の神学的伝統による解釈」に入れ込もうとしたり、あるいは「聖書解釈研究に熱心な方」が「福音の再発見」からヒントを得て、「ご自分の聖書解釈法」を補強しようとなさったりする傾向があるようです。

もちろんこれは程度問題であり、少し熱心な方は、誰でもそのような取り組みはしていると思います。
要はそれが他者の批評にどれだけ耐えうるか、やはり「レフェリー」は必要に思います。

願わくはこのブログもほんの幾分でも、そんな役割が果たせれば良いのですが・・・。

まっタカ牧師では力不足ですから、余りそんなこと言わない方がよろしいかもしれませんね。

いのフェスに出店いたします。

さて、いのフェスもいよいよ今週末。
いよいよ盛り上がってまいりました。(一部だけという噂はございますが…)

今回のいのフェス、力が入っとりますなぁ。なにせ、「晴佐久神父様×宮台先生」ですし。

出店者数も過去最高ではないかと。

場所は、早稲田奉仕園 スコットホールです。
このファングループも、『福音の再発見』を応援する勝手連』として出店いたし、国内メンバーの全員も、当日会場にGo!である。A-9のブースで、「福音の再発見」と「わが故郷、天にあらず」の特価販売(市販価格より少しおやすめ、部数は限定各30部程度)およびNTライトセミナーの情報提供をいたします。

 本ブログのメインライターのTaka先生もお出ましくださるご予定。

 Aー9のブースが分からなくても、福音の再発見の画像がかかったブースが目印です。

いのフェスでお会いしましょう。